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泉北の須恵器 チヌの海 [いわなが姫の丑の刻参り]

泉北高速鉄道の
栂・美木多(とが・みきた)駅の前の
西原公園に牛石古墳がありました。
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6 世紀後半の後期古墳時代の築造らしい。

須恵器(すえき)生産の
氏族の墓と推定されています。

だれかと散策したくなるような
感じのいいケヤキ並木を行きます。
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池を見下ろす桃山公園には野々井遺跡。
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泉北丘陵一帯は「日本書紀」で
「茅渟県陶邑」(ちぬのあがたすえむら)と
呼ばれたところであり
5 世紀から 10 世紀に至る
わが国で最古最大の須恵器生産地であったと
書いてありますが。

通称・陶邑窯跡群(すえむらようしぐん)ですか。

余談ですが説明板には
「県」を「おがた」と仮名を振っていましたが
どうでしょう?!そんな読みありますか。

今は盛り土の下にその住居群の跡があるそうな。



須恵器とはなんでしょうか。
土器ですか!
陶邑(すえむら)と書くから陶器ですか。
陶器というよりろくろ技術を使った土器ですか。

たぶん焼成方法やできあがりの姿を見ると
顕著に違うのでしょうけど。
無教養で分かりません!
学校で習ったのかも知れませんが。

土器といえば
土師器(はじき)を思い出しますが。
須恵器は土師器より硬質でしょうか。

うんと硬いものは磁器でしょうけど
それは豊臣秀吉の時代まで待たねばなりません。
弥生時代からつづく
土師器の時代が終わってから
須恵器の時代が始まった!という訳でもなく
土師器は火に強く
須恵器は水を漏らさないので
長い期間どちらも作られていたようですが。



土師器といえば埴輪(はにわ)!
土師(はじ)氏が古墳築造時の
生贄(いけにえ)の代用に埴輪を考えついたと
古事記・日本書紀に
ともに垂仁天皇のところに記載があります。

垂仁天皇は紀元前の人!記・紀では。
ま!それはだれも信じないでしょうけど。

記・紀にある天皇の生没年は
21 代雄略天皇からの記載がほぼ正しいとすれば
安本美典の数理文献学での計算方法を借用すると
11 代垂仁天皇は
雄略帝から 100 年か 110 年ほど前の人?!
4 世紀中後期になりますか。
計算するときに
神功皇后の扱いに悩みますが。

古墳時代は 3 世紀には始まっていませんか。
4 世紀初頭の奈良県桜井市の前方後円墳の
茶臼山古墳の石室の上部に
30 いくつの土師器の底に穴のある壺が
方形に配列してあったそうな。
埴輪の嚆矢(こうし)ともとれそう。

すると!
土師氏の埴輪考案説はあやしいもの。
氏族の説話を作ったのでしょうね。



このあたりは眼下に大阪湾が見えます。
大阪湾を「チヌの海」といいますね。
今でもときどきそんな活字が現れます。

古事記では
神武東征のとき
神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が
矢に当たり深手を負ったひじを洗った海だから
血沼(ちぬ)の海とあります。

日本書紀ではそのところは
茅渟(ちぬ)の
山城水門(やまきのみなと)に着いたと
初めから「ちぬ」という地名ですがね。

古事記の地名説話は後づけですね!絶対に!



茅渟(ちぬ)の「茅」は今では
「チガヤ」や「ススキ」などの
イネ科の植物を思い浮かべますが
「アシ(葦)」じゃないでしょうか。
大阪湾の海岸は
アシでいっぱいだったのでしょう。

茅渟(ちぬ)の「渟」は
「とまる」「とどまる」でしょうか。

もしかしたら
茅渟県(ちぬのあがた)の地名が先にあって
その接する海だから
茅渟(ちぬ)の海かも。



そんなところに
クロダイがたくさん棲息していたのでしょう。
関西ではクロダイ(黒鯛)を
「チヌ」としかいいません。
古くから「チヌ」と呼んでいたようです。

チヌはマダイ(真鯛)より
うんと沿岸に寄ってきますから
アシ原近くで獲れたはずです。

マダイとクロダイ(チヌ)は
色以外はそっくりです。
マダイは赤い「血」の色。
クロダイは黒い。
「血」の色がない!
「血無(ちむ)」がチヌになったといえば
たぶん笑われるでしょうねぇ。

「血」のえ~と!
「ぬ」は、、、なんでしょう!?
「抜き」「ぬぐい」「ぬすっと」、、、?!
あ!よいこは考えなくてもいいですよ。

チヌという魚名が先にあって
後から「茅渟」の漢字を
あてたといわれても
反論はできませんが。


(安本美典著/大和朝廷の起源)
(宇治谷孟訳/日本書紀)
(福永武彦訳/古事記/をパラパラめくりしました)
(敬称略)
タグ:古事記
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