幻の郭公塚 幻の西成大橋 [町道!街道!眠り未だ足らず]
ホトトギスの季節。
ホトトギスの霊を弔う塚があるという
南桂寺(大阪市福島区)にきましたが。
山門は固く閉ざされ
アリ 1 匹も入山させまいとしています。
ホトトギスの墓なのに
郭公塚と刻まれているそうな。
「郭公」を「カッコウ」と読むのか
「ホトトギス」と読まねばならないのか
確認しようとも思ったのですが。
「ホトトギス」には
阿呆は関わらないほうがよろしい。
昔!ホトトギスの
あて字や異名を書いてみたことがあります。
ノイローゼになるほどあります。
お暇なら
「拙ブログ 2018/05/27」をごらんください。
その中に「郭公」もありましたが。
ホトトギスもカッコウも
ツツドリもジュウイチも
昔の日本人は混同してきたのかな。
姿がよく似ています。
でも!鳴き声は全然違いますがね。
(拙ブログ 2015/05/28)
南桂寺の近くに八坂神社がありました。
境内に松瀬青々(1869 ~ 1937)の代表句の
「菜の花の はじめや北に 雪の山」の
句碑がありました。
ちなみに先ほどの南桂寺に
青々の記念碑か墓碑かがあるそうですが。
句碑の横に「西成大橋」の親柱があります。
ここは福島区ですよ。
私が「西成」と聞いてイメージする
通天閣以南は数 km 以上離れていますが。
八坂神社の南に
大和田街道・梅田街道が通っていました。
大阪市が建てた道標の地図を見ると
街道はここから(新)淀川を渡るのですね。
淀川を渡る橋が「西成大橋」なんですね。
あ!今まで
大和田街道・梅田街道と
まとめていっていましたが
淀川の左岸までが梅田街道
右岸側が大和田街道でしたか。
「淀川の 銭取り橋や 寒習ひ」
やはり!青々の句ですが
その銭取り橋!すなわち通行料を取る橋は
どの橋を指しているのやら。
淀川に出ました。
西成大橋はありません。
街道をたどるものは
淀川大橋を渡らざるをえません。
手前の古い橋の親柱は
銘板なんて紛失していますが
堤のこちらが側にあった
淀川小橋の遺物のようです。
淀川大橋の下流側をのぞいてみます。
なんの根拠もないですが!そのあたりに
西成大橋があるような気がして。
渡り切って振り返ります。
なにも分かりません。
しからば!上流側に回ってもおなじ。
西成大橋は杳(よう)として知れず。
もしかして
淀川大橋と改名したのでしょうか。
土手の下に鼻川神社があります。
この辺の地名は「花川」なんですね。
神功皇后が川の端(はな)にあるので
鼻川の里と命名してくれたのだそうな。
今は鼻川が花川に漢字が変わっています。
でも!神社は鼻川のまま。
その川は中津川だったのですが。
明治 29 年(1896)から 14 年かけて
淀川の改良がおこなわれました。
蛇行していた中津川をつぶして
まっすぐにし!幅員をとり!開削しました。
それが新淀川。
今の淀川下流!河口。
そこへ明治 41 年(1908)
西成大橋を架けたのですね。
そこが西成郡だったので西成大橋。
通行量が急増したので
大正 15 年(1926)に
新しく橋を造って!
西成大橋を撤去したようです。
そのときには
西成郡が大阪市に併合され消えていたので
新しい橋の名は淀川大橋。
鼻川神社にも
西成大橋の親柱が保存されていました。
両岸の神社に 1 本ずつ残したのですね。
淀川大橋を渡って
元きた道を帰ります。
消波ブロックの間を釣っています。
ボートでルアーを投げている人もいます。
潜っている(?)人も。
もう夏。
でも!ホトトギスは飛んできません。
飛んでくる里は消えたのですね。
(松村博著/八百八橋物語/)
(露の五郎著/なにわ橋づくし/)参照
(敬称略)
ホトトギスの霊を弔う塚があるという
南桂寺(大阪市福島区)にきましたが。
山門は固く閉ざされ
アリ 1 匹も入山させまいとしています。
ホトトギスの墓なのに
郭公塚と刻まれているそうな。
「郭公」を「カッコウ」と読むのか
「ホトトギス」と読まねばならないのか
確認しようとも思ったのですが。
「ホトトギス」には
阿呆は関わらないほうがよろしい。
昔!ホトトギスの
あて字や異名を書いてみたことがあります。
ノイローゼになるほどあります。
お暇なら
「拙ブログ 2018/05/27」をごらんください。
その中に「郭公」もありましたが。
ホトトギスもカッコウも
ツツドリもジュウイチも
昔の日本人は混同してきたのかな。
姿がよく似ています。
でも!鳴き声は全然違いますがね。
(拙ブログ 2015/05/28)
南桂寺の近くに八坂神社がありました。
境内に松瀬青々(1869 ~ 1937)の代表句の
「菜の花の はじめや北に 雪の山」の
句碑がありました。
ちなみに先ほどの南桂寺に
青々の記念碑か墓碑かがあるそうですが。
句碑の横に「西成大橋」の親柱があります。
ここは福島区ですよ。
私が「西成」と聞いてイメージする
通天閣以南は数 km 以上離れていますが。
八坂神社の南に
大和田街道・梅田街道が通っていました。
大阪市が建てた道標の地図を見ると
街道はここから(新)淀川を渡るのですね。
淀川を渡る橋が「西成大橋」なんですね。
あ!今まで
大和田街道・梅田街道と
まとめていっていましたが
淀川の左岸までが梅田街道
右岸側が大和田街道でしたか。
「淀川の 銭取り橋や 寒習ひ」
やはり!青々の句ですが
その銭取り橋!すなわち通行料を取る橋は
どの橋を指しているのやら。
淀川に出ました。
西成大橋はありません。
街道をたどるものは
淀川大橋を渡らざるをえません。
手前の古い橋の親柱は
銘板なんて紛失していますが
堤のこちらが側にあった
淀川小橋の遺物のようです。
淀川大橋の下流側をのぞいてみます。
なんの根拠もないですが!そのあたりに
西成大橋があるような気がして。
渡り切って振り返ります。
なにも分かりません。
しからば!上流側に回ってもおなじ。
西成大橋は杳(よう)として知れず。
もしかして
淀川大橋と改名したのでしょうか。
土手の下に鼻川神社があります。
この辺の地名は「花川」なんですね。
神功皇后が川の端(はな)にあるので
鼻川の里と命名してくれたのだそうな。
今は鼻川が花川に漢字が変わっています。
でも!神社は鼻川のまま。
その川は中津川だったのですが。
明治 29 年(1896)から 14 年かけて
淀川の改良がおこなわれました。
蛇行していた中津川をつぶして
まっすぐにし!幅員をとり!開削しました。
それが新淀川。
今の淀川下流!河口。
そこへ明治 41 年(1908)
西成大橋を架けたのですね。
そこが西成郡だったので西成大橋。
通行量が急増したので
大正 15 年(1926)に
新しく橋を造って!
西成大橋を撤去したようです。
そのときには
西成郡が大阪市に併合され消えていたので
新しい橋の名は淀川大橋。
鼻川神社にも
西成大橋の親柱が保存されていました。
両岸の神社に 1 本ずつ残したのですね。
淀川大橋を渡って
元きた道を帰ります。
消波ブロックの間を釣っています。
ボートでルアーを投げている人もいます。
潜っている(?)人も。
もう夏。
でも!ホトトギスは飛んできません。
飛んでくる里は消えたのですね。
(松村博著/八百八橋物語/)
(露の五郎著/なにわ橋づくし/)参照
(敬称略)
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