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天満橋 まぼろし たこめし [いわなが姫の丑の刻参り]

大阪天満宮の東に
「まほうびん記念館」がありました。
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象印マホービンの本社ビルらしい。
中に入って行くと追い出されました。

風体がこ汚いから!
じゃなく
「予約のない方お断り」だそうです。

大変なところのようですね。



ま!いいや
コンビニで熱いコーヒーを買って
天満橋の脇から川沿いに下ります。

あ!
「将ぎ島 粗朶水制跡」の碑が。
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「しょうぎじま そだすいせいあと」と読みましょう。
ちなみに「将ぎ島」の「ぎ」は
「基」の「土」が「木」になった字です。



天満橋の上流。
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もとより資料もなければ
研究したこともない
あちこち断片的にみた無責任なはなしで恐縮ですが。

上流から中州というのか
半島といえばよりいいのか分かりませんが
細い島が伸びていたはず。

大坂冬の陣(1614 年)の陣構えを見ると
小島はあるものの天満橋までは伸びていませんが
江戸の終わりから大正時代までの地図には
たしかに大川左岸が半島のように
細く長く伸びて天満橋を越えています。

天満橋の上流で
旧・淀川
旧・大和川
旧・鯰江(なまずえ)川が合流していたのです。

それらの大河が運んできた土砂がたまって
中州を形成していたのかも知れません。

それが!なにもありませんね!
きれいさっぱり。

旧・淀川は本流をはずされ今・大川
旧・大和川は流れてこないで今・寝屋川
旧・鯰江(なまずえ)川は埋め立てられ
まったく面影がありません。

川の流量は減っても島は残りませんかねぇ。



あ!?
大正時代の地図に「将ぎ島」の字が!
天満橋の下に!

将ぎ島があったのです!たしかに。

碑の横の説明板によると
将ぎ島は隔流堤(かくりゅうてい)だとか。

大川(そのころには淀川でしょうか)の激流が
鯰江川や
寝屋川(大和川流路変更つけ替えは 1704 年)に
逆流するのを防ごうとして造ったものらしい。
だれが造ったのでしょうか。

「粗朶水制(そだすいせい)」とは
明治の初めのころオランダ人のデ・レーケたちが
将ぎ島から大川の中央に向けて
木の枝と石を組み合わせたものを
いくつか造って突き出し
水勢を弱体化しようとした水制工だとか。

それが今の橋の下にはなんにもない!
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なにがあって消えたのでしょう。



天満橋のそば
京阪・天満橋駅のビルにあった松坂屋
大阪店といっていたような気がしますが
今はありませんね。

でも!地下の食品街はありますね。

タコ焼き店のイートインコーナーに着席。
「道頓堀くくる」という屋号らしい。

「たこめし」をください。
あ!
タコ焼きとセットじゃないとダメなのかな。

「いいですよ!単品でも」

350 円。
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天満橋で
「道頓堀」でもあるまいとも思ったのですが
干章魚(ほしだこ)のみの
シンプルな炊き込みごはん。
おいしかったですよ。
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