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東大寺転害門 読めますか [南都有情]

奈良の東大寺の西方に
京に通じる道があります。

古道らしい。
京街道というのでしょうか。
京都からみたら
奈良街道というのかも知れませんが。

街道に沿って
築地塀(ついぢべい)があります。
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このあたりが東大寺の西の境界?!

この南北の境界線の南の方に
古そうな立派な邸宅があります。
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「荒井」と表札があがっています。

荒井さんがお住まいですが
荒井さんの持ち家じゃなく仮の宿(!)かな。
荒井さんは奈良県知事。
知事公舎なんですね。
趣のある公舎です。



少し北へ進めば
「轟橋」「雲井阪」の石碑が
排気ガスにさらされて振り返る人もなく。
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街道に橋や
旅人を悩ます
ちょっと急な坂があったのでしょうか。



つづいて
「史跡東大寺旧境内」の碑。
やっぱりこのあたりまで境内だったのです。

その横に大きな礎石。
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「西大門址」だとか。

たぶん!礎石は
まだいくつかあったのでしょうけど
盗まれたり!転用されたり!売られたりして
今はふたつだけ。

地図を広げます。
ここから西にまっすぐ行くと!
今は道路事情が変わり!まっすぐ行けませんが!
平城宮の朱雀門へあたるようです。

東大寺は南を向いていて
南大門が威容を誇っていますが
もしかして
西大門が正面だったのでしょうか。

国分寺の総本山ですから
古地図には「国分門」と書かれていたような。
ちょっと記憶があいまいですが。

礎石があまりにも立派。
やっぱり!
今の南大門以上の大きな門だったのかも。



さらに北に進めば「焼門前」の交差点。
「やけもんまえ」と読むのでしょうか。

門が焼けたのですね。
大昔ですね。
記録をひもとくと
慶長 11 年(1606)のことらしい。

ここにあった門の名前は「中御門」
しかし!慶長以来だれもそんな認識はなく
再建もされず!
「焼門(やけもん)」と呼んできたようです。

大きな礎石が 9 個残っています。
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並びが少しぎこちないのは
道路を造った際!動かしたのでしょう。

この道は東大寺金堂(大仏殿)と
講堂(跡)の間につづいていました。



西の境界線にはもうひとつ
一番北に転害門(てがいもん)があります。
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東大寺創建時(8 世紀半ば)から残っている
数少ない建造物。

鎌倉時代ころに改修した跡もあるそうですが
それからでも 7、8 百年。

端の風雨がよくあたる柱はやせています。
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石にうがたれた穴は屋根から落ちてきた
雨だれのしわざ!?
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歳月の重さに戦慄が走りますね。

門の中央に平石が 4 個あります。
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東大寺鎮守の手向山八幡宮が
九州からやってきたとき
神輿(みこし)が休んだところだそうですよ。

1250 年の間にはいろいろあったようで
この門は佐保路門というのが最初の名前らしい。

そして「転害(てがい)門」!

「転害(てがい)」の漢字もややこしい?!
今じゃ「手貝(てがい)」になっていますね。
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