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仁徳天皇陵にて [いわなが姫の丑の刻参り]

仁徳天皇陵の正面です。
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南側から北東に見ています。

百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)が
正式な名前かも知れませんが
宮内庁が仁徳天皇陵だと比定しているので
仁徳天皇陵です。

たぶん!この治定は間違っていると
なんの根拠もないけど
思ってしまうのは私だけでしょうか。

でもまぁ!バカでかいお墓です。
長さでは世界一の墓だそうです。
ちなみに高さで世界一はクフ王のピラミッド。
体積世界一は秦の始皇帝陵。

地図で見ると三重の堀に囲まれていますが
外側の堀が見えるだけでなにがなんやら。



仁徳天皇は知名度の高い天皇ですね。
でも!私なんかの無学なものには
不思議な!不可解な一生です。

私の一番の疑問は
配偶者や皇子女の数が少ない。

手元にある天皇家の系譜を見れば
第 16 代仁徳天皇の配偶者は 4 名。
皇子女は 6 人。
記紀(古事記&日本書紀)の記録と同じでしょうか。

在位 87 年!
私の手元の古事記では83 歳で亡くなっています。
算数が分からなくなりますね。はは。

算数の答えはさておいて
そんな権勢を誇った天皇が
后(きさき)やこどもが少ないなんて。



後ろを向けば孫太夫山古墳。
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仁徳天皇陵に比べたらミニミニですが
堀のある立派な古墳です。

陪塚(ばいづか)だそうです。

陪塚は10 数基あったとかいいますが
いくつかは失われているらしい。

南のラインには陪塚が並んでいます。
狐山!竜佐山!孫太夫山古墳が認められます。
南の東の角に収塚古墳というのが地図にありますが
私にはよく分かりません。



古事記の字数では仁徳帝分は
2665 字あるとか。(安本美典著/大和朝廷の起源)

神武天皇が 2636 字だそうですから
大変重要な初代とほぼ同じ量の記事。

それで皇子女を書き忘れることもないはず。



古墳の周囲を歩きます。

東のラインの塚廻古墳と
北の東の源右衛門古墳も陪塚らしい。
雑木が生えているだけのところですがね。

北の東の外側の堀と中側の堀の間に
やはり陪塚・大安寺山古墳。
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そばで見たら
お世辞にもきれいともいえない水がある外の堀と
木々の繁りがあるだけです。

離れて見たくても
周囲に民家がひしめいていて容易ではありません。

北の堀の中にはもう 1 基
陪塚・茶山古墳がありました。
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いわれてみて!そう思うだけ!木々のかたまり。



仁徳天皇は大変好色に書かれています。

しかし!皇后の
石之比売命(いわのひめのみこと)が嫉妬に狂い
ことごとく恋のじゃまをしています。

だから配偶者の数が極端に少ないのかな。

4 人の后のうち
2 人は応神天皇の娘です。
つまり!自分の妹なんですね。

あとひとりは
父・応神天皇が気に入って
日向から呼び寄せた髪長比売(かみながひめ)。

父親の妃をもらったの?!



北の西に
永山!丸保山!菰山古墳。
これらも陪塚だそうですが
今回は見ないで通り過ぎます。

西のラインの中ほどに
外側の堀の中に島のように浮かんでいるのは
陪塚・桶の谷古墳だとか。
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さらに西の南に陪塚・銅亀山古墳がありますが。

陪塚はかろうじて認められますが
周遊歩道 1 周 2.8km ばかり歩いても
仁徳天皇陵の全体の姿は分かりません。



勅撰(ちょくせん)ですよ!記紀は。
勝手に書いた本ではないのです。

それでこの記録とは。

やっぱり!いつも感じるのですが
応神天皇から
天皇家の系統が入れ替わったのじゃないでしょうか。

応神天皇の前 69 年間は
天皇が不在だったようですしね。

それに!応神天皇と仁徳天皇は同じ人かな?!

ひとりの業績をふたつに割って書いたのでは。

応神帝の
配偶者は 10 人。
皇子女は 28 人。
そこに書き尽くしたので
仁徳帝の方には少なくなったのでは。



文化遺産か自然遺産か知りませんが
世界遺産に登録されたいらしいのですが
測量や発掘をして
もう少しつまびらかにしなければならないこと
多いのじゃないですか。



(敬称略)
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