舒明天皇の初葬墓ではない?! [いわなが姫の丑の刻参り]
近鉄・岡寺駅近くに大きな
モヒカン刈りの古墳があります。
たぶん!勝手に生い茂っていた木々を
裾の方は払った結果でしょうけど。
大き過ぎて全体像はよく分かりませんが
前方後円墳の丸い方が見えているらしい。
昔からその大きな丸い部分が際立っていたようで
呼び名はそのまま丸山古墳。
宮内庁は(40 代)天武天皇と
(41 代)持統天皇の陵墓候補地にあげていますが。
世間は(29 代)欽明天皇か
その時代の大もの!
蘇我稲目じゃないかといっています。
蘇我一族の本拠地があったとされる
甘樫丘(あまかしのおか)の近くですから。
東に行けば菖蒲池古墳。
精巧な家形石棺がのぞけます。
大王クラスの墳墓でしょう。
これも蘇我稲目かその一族が葬られていると
うわさされていますが。
菖蒲池古墳の隣の
奈良県立明日香養護学校の敷地で
奈良県立橿原考古学研究所の
発掘の現地説明会がありました。(2015/01/18)
10 時からの予定でしたが
9 時前に入場が早まりました。
岡寺駅からアリの行進のごとく
人が押し寄せてきているらしい。
考古学が好きなんですね!日本人は。
他人も私をそう卑下しているでしょうけど。あは。
150 人ずつ発掘現場に入れてくれましたが。
もちろん!私は図々しくも最初の組で入りました。
石が敷かれた「掘割」らしい。
飛鳥地域では最大の方墳と推察されています。
無学な目から見ると
墳墓というより
庭園の一部としか見えないのですが!すみません。
狭い足場上に人が殺到するものですから
ゆっくり見られません。
写真を少し撮って!早々に退散。
その画像が!ああ。
昨日(2015/01/17)明石海峡大橋で
夕焼けを撮ったときの設定に
ダイアルが回っていました。
上掲のように赤い(?)現場ではありませんから。
「方墳」といえば
横の菖蒲池古墳と同じですね!
日本書紀でいう
蘇我蝦夷(えみし)入鹿(いるか)親子の
「双墓(ならびはか)」かも。
他に(35 代・37 代)斉明(皇極)天皇の
名前も出ていました。
でも流れは(34 代)舒明(じょめい)天皇の
初葬墓ですね。
今!舒明天皇陵は桜井市忍坂(おっさか)にあります。
崩御した翌々年に
「押坂内陵」に改葬したという日本書紀の記述通りに。
最初どこかに埋葬していたのでしょう。
その初葬墓がこれだという説で
現場のシロート・クロートの大半が
口角泡を飛ばしていました。
私のいい加減な推察では。
① 庭園の池
② 蘇我蝦夷の墳墓
③ 舒明天皇の初葬墓
④ 斉明天皇陵
賛同者は少なし。はは。
628 年!(33 代)推古天皇が没した後
実力者・蘇我蝦夷は聖徳太子の子の
山背大兄(やましろのおおえ)皇子をしりぞけて
田村皇子を立てて舒明天皇にしました。
舒明天皇が亡くなっても
やっぱり!山背大兄皇子にはゆずらず
舒明天皇の皇后を立てて
皇極天皇にしてしまいました。
山背大兄皇子は蝦夷にとっては甥なんですがね。
なぜなんでしょうね。
後に日本書紀では
蘇我蝦夷を極悪非道に仕立てています。
創作と思われかねないほどたくさん書いています。
他の悪人(?)はばっさり斬り捨てておしまいなのに
行状をこと細かに書き連ねるとは
なぜなんでしょうね。
乙巳(いっし)の変・大化の改新も変です。
蘇我蝦夷・入鹿親子がいなかったら
父母の舒明・皇極天皇の即位はなかったのに
中大兄(なかのおおえ)皇子は
恩人の親子を殺害したのです。
日本書紀ではその言い訳や
大義名分を一所懸命作ろうとしていませんか。
万葉集の 2 番目に舒明天皇の歌があります。
大和(やまと)には
群山(むらやま)あれど とりよろふ
天(あめ)の香具山 登り立ち
国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ
うまし国ぞ あきづしま 大和の国は
(現代表記/佐佐木信綱)
香久山からのぞめば
平原には民のかまどがにぎわっているようだ
海原にはカモメが飛んで豊かな国だわい
とでもいっているのでしょうか。
きわめて観念的で分かりにくい歌ですが。
国原の煙はなんとか想像できますが
海原にカモメが飛んでいるだけで
どうして「うまし国」なんですか。
だいたい!香久山から海が見えますか。
なんの比喩なんでしょう。
また「とりよろふ」とはなんですか。
万葉仮名を見れば「取與呂布」!
「鳥が寄っていた」のでしょうか。
甘樫丘が南に延びた端に
菖蒲池古墳と
今回発見された方墳(?)がありますね。
飛鳥川沿いです。
当時には湿地や沼地も多く!
海のように見えたのかも。
冬にはその川に
ユリカモメでも飛んできていたのやら。
なんて幻を追いましたが
まだ!舒明天皇の初葬墓と
決まった訳じゃありませんでしたね。
(敬称略)
モヒカン刈りの古墳があります。
たぶん!勝手に生い茂っていた木々を
裾の方は払った結果でしょうけど。
大き過ぎて全体像はよく分かりませんが
前方後円墳の丸い方が見えているらしい。
昔からその大きな丸い部分が際立っていたようで
呼び名はそのまま丸山古墳。
宮内庁は(40 代)天武天皇と
(41 代)持統天皇の陵墓候補地にあげていますが。
世間は(29 代)欽明天皇か
その時代の大もの!
蘇我稲目じゃないかといっています。
蘇我一族の本拠地があったとされる
甘樫丘(あまかしのおか)の近くですから。
東に行けば菖蒲池古墳。
精巧な家形石棺がのぞけます。
大王クラスの墳墓でしょう。
これも蘇我稲目かその一族が葬られていると
うわさされていますが。
菖蒲池古墳の隣の
奈良県立明日香養護学校の敷地で
奈良県立橿原考古学研究所の
発掘の現地説明会がありました。(2015/01/18)
10 時からの予定でしたが
9 時前に入場が早まりました。
岡寺駅からアリの行進のごとく
人が押し寄せてきているらしい。
考古学が好きなんですね!日本人は。
他人も私をそう卑下しているでしょうけど。あは。
150 人ずつ発掘現場に入れてくれましたが。
もちろん!私は図々しくも最初の組で入りました。
石が敷かれた「掘割」らしい。
飛鳥地域では最大の方墳と推察されています。
無学な目から見ると
墳墓というより
庭園の一部としか見えないのですが!すみません。
狭い足場上に人が殺到するものですから
ゆっくり見られません。
写真を少し撮って!早々に退散。
その画像が!ああ。
昨日(2015/01/17)明石海峡大橋で
夕焼けを撮ったときの設定に
ダイアルが回っていました。
上掲のように赤い(?)現場ではありませんから。
「方墳」といえば
横の菖蒲池古墳と同じですね!
日本書紀でいう
蘇我蝦夷(えみし)入鹿(いるか)親子の
「双墓(ならびはか)」かも。
他に(35 代・37 代)斉明(皇極)天皇の
名前も出ていました。
でも流れは(34 代)舒明(じょめい)天皇の
初葬墓ですね。
今!舒明天皇陵は桜井市忍坂(おっさか)にあります。
崩御した翌々年に
「押坂内陵」に改葬したという日本書紀の記述通りに。
最初どこかに埋葬していたのでしょう。
その初葬墓がこれだという説で
現場のシロート・クロートの大半が
口角泡を飛ばしていました。
私のいい加減な推察では。
① 庭園の池
② 蘇我蝦夷の墳墓
③ 舒明天皇の初葬墓
④ 斉明天皇陵
賛同者は少なし。はは。
628 年!(33 代)推古天皇が没した後
実力者・蘇我蝦夷は聖徳太子の子の
山背大兄(やましろのおおえ)皇子をしりぞけて
田村皇子を立てて舒明天皇にしました。
舒明天皇が亡くなっても
やっぱり!山背大兄皇子にはゆずらず
舒明天皇の皇后を立てて
皇極天皇にしてしまいました。
山背大兄皇子は蝦夷にとっては甥なんですがね。
なぜなんでしょうね。
後に日本書紀では
蘇我蝦夷を極悪非道に仕立てています。
創作と思われかねないほどたくさん書いています。
他の悪人(?)はばっさり斬り捨てておしまいなのに
行状をこと細かに書き連ねるとは
なぜなんでしょうね。
乙巳(いっし)の変・大化の改新も変です。
蘇我蝦夷・入鹿親子がいなかったら
父母の舒明・皇極天皇の即位はなかったのに
中大兄(なかのおおえ)皇子は
恩人の親子を殺害したのです。
日本書紀ではその言い訳や
大義名分を一所懸命作ろうとしていませんか。
万葉集の 2 番目に舒明天皇の歌があります。
大和(やまと)には
群山(むらやま)あれど とりよろふ
天(あめ)の香具山 登り立ち
国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ
うまし国ぞ あきづしま 大和の国は
(現代表記/佐佐木信綱)
香久山からのぞめば
平原には民のかまどがにぎわっているようだ
海原にはカモメが飛んで豊かな国だわい
とでもいっているのでしょうか。
きわめて観念的で分かりにくい歌ですが。
国原の煙はなんとか想像できますが
海原にカモメが飛んでいるだけで
どうして「うまし国」なんですか。
だいたい!香久山から海が見えますか。
なんの比喩なんでしょう。
また「とりよろふ」とはなんですか。
万葉仮名を見れば「取與呂布」!
「鳥が寄っていた」のでしょうか。
甘樫丘が南に延びた端に
菖蒲池古墳と
今回発見された方墳(?)がありますね。
飛鳥川沿いです。
当時には湿地や沼地も多く!
海のように見えたのかも。
冬にはその川に
ユリカモメでも飛んできていたのやら。
なんて幻を追いましたが
まだ!舒明天皇の初葬墓と
決まった訳じゃありませんでしたね。
(敬称略)