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玉出と帝塚山古墳 [いわなが姫の丑の刻参り]

朝早くから走りまわっていたり
夜遅くに管を巻いていたり
昼間電車の中で熟睡して乗り過ごしたり
私の人生は笑いを通り越えていますが。

またまた早朝!
大阪市営地下鉄の玉出(たまで)駅前の
「松屋」玉出店で朝食。360 円。
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それがどうした!といわれるかも。
ただ!ちょっとうれしかっただけですが。

私の家の周囲に
牛丼・牛めしの店舗は
吉野家!松屋!なか卯とあったのですが。

ファストフードの牛丼といっても好みがあって
半数くらいの人が吉野家好き。
私のように松屋に行くものは少数派。
なか卯の人はもっと少なかったですね。

ま!まわりの
10 人にも満たない男女の好みですけどね。

それが今は「なか卯」しかありません。
吉野家!松屋は撤退してしまいました。



そんな朝食しながら
ふと!考えたのですが
「玉出(たまで)」とは
どこからきた地名でしょうか。

「玉」が「出」るなんて
いい名前じゃないですか。

24 時間営業のスーパーマーケットの
「スーパー玉出」なんかいい名じゃないですか。
この地名からとったのでしょう。

横の生根(いくね)神社に行ってみます。
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境内に伝統野菜のこつま南瓜塚があります。
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「こつま」を漢字で書けば「勝間」
この周辺が
勝間村(こつまむら)だったのですね。

さらに勝間村のこのあたりが「玉出」だったのかも。



玉出の東は丘になっています。

丘の代表が帝塚山古墳。
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その帝塚山は手塚山と書いていたらしい。
さらにその前は玉手塚だとか。

住吉大社の周辺に
「玉出の岡」と称する場所があったようです。
その中の塚だから「玉出塚」そして「玉手塚」かな。

「玉出」と「帝塚山」は同根のような。

あ!私の変な結論に同調しないでくださいね。
たぶん!
もっといい由緒があると思いますよ。



帝塚山古墳はいつも厳重に閉ざされています。

いつも上掲の写真のようにしか見えませんから
小さな土盛りの認識しかないのですが。

なかなかどうして!
たまに公開したときの写真ですが。
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今はいくらか削られているようですが
もともとの全長は 120m あったそうな。
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現在はまったく消滅していますが
このあたりにはこんな古墳だらけだったはず。
だから「玉出の岡」かな。



帝塚山古墳はいい伝えでは
大伴金村(おおとものかねむら)の墓だそうですが。

金村は生年のよく分からない人です。

今!手元にある古事記/福永武彦訳/を広げると
継体天皇(450? ~ 531?)の系図の項に
物部荒甲大連(もののべのあらかいのおおむらじ)と
大伴金村のふたりを筑紫に派遣して
「いはヰ」を討って殺させたとあります。

この古墳の築造年代は
4 世紀末から 5 世紀初頭とされていますから
100 年くい違うのじゃないですか。

もうひとつは
浦島太郎の墓という説。
夢があってよろしい。



先ほどの生根神社は
丘の上の生根神社から勧請したとか。

住吉大社の近くにその元の生根神社があります。
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2 社を区別するために
「奥の天神」と呼んでいるようです。

ちなみに玉出駅前の生根神社は
「玉出のだいがく」というニックネーム。

「だいがく」とは
長い竿を立てて
横竹をいくつか結び
それにたくさんの提灯を下げる
秋田の竿灯みたいなものらしい。

それを祭りや雨乞いどきにくり出すのでしょう。



松屋で朝食して
とんでもない迷路に入ってしまいました。

こんな非生産性なことに思案しているほど
生活に余裕がないのに。
この辺で帰ります。



(敬称略)
タグ:古事記
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