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雄略天皇陵は股裂き?! [いわなが姫の丑の刻参り]

宮内庁の高札には
丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)とあります。
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雄略天皇陵と治定されている古墳。
大阪府羽曳野市の古市古墳群にありますが。

これ!古墳ですか!?
平地の鎮守の森くらいしか見えません。

過去に 1 度しかここにきてはいませんが
なぜか不思議な印象がおりのように
胸の奥に沈んでいます。

というのは
雄略天皇ですよ!

宋書の「倭王武」に比定されたり
万葉集の冒頭を飾ったり
九州から関東まで
「ワカタケル」と書かれた出土品があるとか
大変有名な天皇ですよ。

古事記の記事の量が特別多いのに。

天皇家の皇統は
なん度か入れ替わっているような気がするのですが
そのひとつの転換期の天皇かも知れないのに。

そして
まぁ!ことばが悪いですが
女あさりと人殺しを好きなだけやった
荒ぶる天皇ですよ。

その英雄(!)の陵が?!
あらためてながめてもぺっちゃんこ。



地図によっては
島泉丸山古墳とか高鷲丸山古墳とか
「丸山」と書かれていますが。

丸山!?
円墳なんですか。

あ!拝所の向こう側
西に回れば、、、円墳が堀の中にありました。
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表だけ見ていたのですね。
円墳がホントの雄略天皇陵?!

それでも!変ですね。
小さい!
この時代のこのクラスの大王の陵墓は
小さな円墳ではなく
前方後円墳が
で~んとなければおかしいのじゃないですか。

あ!
島泉平塚古墳と書かれた書籍もありますね。

つまり!拝所のあるあたりが島泉平塚古墳で
その西側の堀の中の古墳が島泉丸山古墳?!

ふたつ合わせて前方後円墳としたいのですか。

前方後円墳の間を掘って堀を造った説もあるとか。
まさかね!
時代が下がって
埋めることはあっても掘ることはないでしょう。

「元禄の修陵」か「文久の修陵」かで
比定を間違えているのでは。

というより!無茶苦茶な解釈ですね。
これじゃ!股裂き古墳じゃないですか!?

平安時代の延喜式に
「雄略天皇陵 三町 三町」の
記録が残っているそうですから
やっぱり!ここではありませんよ。



ま!雄略天皇陵の長年の懸案はおしまい。
なんとなく私的には解決したから。
これ以上考えるほどお勉強が好きではありません。

長尾街道を東にたどり藤井寺市に入れば
大きな原っぱ!?
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「史跡城山古墳」の碑があります。
地図には津堂城山古墳と書いてありますが。

原っぱに見えるところは
堀が埋まって湿地になっているのかも。

被葬者は分かりません。

宮内庁が陵墓参考地にしています。
允恭(いんぎょう)天皇陵じゃないかと。

19 代允恭天皇陵は
ここから東にある前方後円墳を治定しておきながら
よくばりですね。

雄略天皇陵は
こちらの方が似合うような気もします。

黒岩重吾はここを
襲津彦(そつひこ)の墓と想定していましたね。

黒岩は 4、5 世紀には
天皇家以外に王朝が
いくつかあったというスタンスのようです。

そのひとつ葛城王朝の英雄の襲津彦の墓。

もし!
各地の神話を集約して編纂したものが古事記なら
履中天皇!反正天皇!允恭天皇兄弟の
祖父にあたる人でしょうか。

ちなみに允恭天皇のこどもが雄略天皇かな。



はなしはここでおしまい。
このあたり
なん度歩いても迷子になるし
天皇陵の治定もよく分からないし
もう積極的に歩くこともないかなぁ。

それにしても
世界文化遺産登録を目指すのなら
もう少し調査が必要なんじゃないでしょうか。
私が生意気いうこともないですが。



(敬称略)



(追記)

認識不足でした!すみません。

古事記の記事の量は
1 位は応神帝の 3,806 字のようです。
ついで景行帝と神武帝が 3,000 字を越えていました。

雄略天皇の量は 2,368 字でした。

神武天皇!応神天皇と
比肩するほどの量と思っていましたが。
それでも多くの天皇よりは多い?!
上位 10 番内には入っているでしょうけど。
タグ:古事記
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