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老兵挽歌 神武天皇東征 [活動写真]

1949 年
蒋介石(しょうかいせき 1887 ~ 1975)の率いる
中華民国政府が台湾に渡ってきました。
その関係者数!実に 200 万人!
そのうち 60 万人が国民党兵士だったそうな。

あるものは志願して!
またあるものは仕方なく!
そして多くのものは強制連行されて
兵士にされたとか。

日本軍との戦いにたまたま生き延びて!
中国共産軍と交えて奇跡的に死なず!
またまた捕えられて
北朝鮮の援軍として
朝鮮戦争の最前線に立たされた人もいます。
悲しいほど戦ってきたのですね。

さいわい(?)に
朝鮮戦争でアメリカ軍の捕虜になりました。
もし韓国軍に捕まっていたら
即!撃ち殺されていたとか。

そこでアメリカ軍に頼んで
台湾に送ってもらった人も多数。
もし!中国共産軍に返されたら
死ぬまで戦わされていたらしい。

そんな兵士たちが老いた今の
ドキュメンタリー映画を観ました。
blog1.jpg

「老兵挽歌」です。



蒋介石がむりやりなだれ込んできたときには
本省人(台湾人)は 600 万人。
そこへ外省人(大陸の人)が 200 万人!
その外省人が大陸の共産軍と
なおも撃ち合いつづけるなんて(金門砲戦とか!)
本省人にはたまりませんね。

ふと!
神武天皇東征を思い出しました。

神武天皇はなぜ
九州から近畿まで行ったのでしょうか。

日本書紀には
「東の方によい土地がある」(宇治谷孟訳)
「東によい地(くに)がある」(安本美典訳)
とあります。
たったそれだけの理由です。

そんな簡単な動機で
近畿にたどりつくのに四苦八苦!
古事記によると実に 16 年もかかっています。

それに神武天皇は東征ではないですね。
東遷ですね。
もし九州に
邪馬台(臺)国(または邪馬壹国)があったのなら
邪馬台国東遷ですね。

蒋介石が神武天皇!
邪馬台国が中華民国に思えてきました。



だいたい神武天皇東征(東遷)には
なん人加わっていたのでしょうか。

試みに蒋介石の例を下敷きに
乱暴ですが
1949 年の台湾の 1/100 の人口で考えると
6 万人の奈良の大和に
2 万人の九州勢が加わるということでしょうか。

女・こどもはいたのでしょうか。

今!なん日かの旅行でさえ
あれやこれや大荷物を引きずって行くのに
十数年かけて民族大移動?!
それも戦いながら。
大変だぁ!

ん?!
倭国大乱!?
三国志の魏志倭人伝や
後漢書の東夷伝にある倭国大乱。

その収拾に卑弥呼が立ったと習いませんでしたか。

そのときの内乱で押し出された一部の勢力が
逃げてきたのでしょうか。

すると!その反主流派の勢力が神武天皇なら
東征(?)しても帰れないということ!?



台湾に渡ってきた兵士は
ずいぶん年を取って
今!栄誉国民(栄民)と呼ばれ
数々の特典を与えられ
栄民の家といわれる恵まれた軍の施設で
集団生活をしていました。

これは日本映画です。
林雅行監督作品です。
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2010 年の撮影です。
公開まで長時間かかりましたね。

いろんな顔色をうかがったのでしょうね。
特に台湾人の感情と
中華人民共和国の横槍が心配?!

こういう「正義」には
日本のマスコミはあてになりません。
自主的か!圧力に屈しているのか
偏った報道しかしない人たちですから。

ついでに偏見を書きますが
韓国を旅すると
韓国人は心底日本を嫌っているような。
土産店の店員は愛想がいいですけどね!
商売ですから。

台湾に行くと
市井の特に老人たちが
友好的に手を差し出してくれるような。

というのは
蒋介石がきていなかったら
台湾人も
韓国人のように日本を嫌っていたと思うのです。

目前の外省人が横暴なら
昔の日本人はよかったなぁ!と
思うのじゃないですか。

韓国人の心には
日本人の悪いところだけが
いつまでも漂っているのでは。

半島の韓国の人!ごめんなさい。

神武天皇の九州人と畿内人が
なじんで判別がつかなくなるには
どのくらいのときが必要だったのでしょうか。

日本人は「長いものには巻かれろ!」の!
いや!
「まとまり」の極端にいい民族ですから
それが台湾にあてはまるかは
疑問でもありますが。



(敬称略)
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