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頼山陽 宮武外骨の碑 [わが街・大阪ブギウギ]

大阪市西区のオフィス街に
頼山陽(らいさんよう 1781 ~ 1832)の
生誕地の碑があります。
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たくさん漢詩を残している人ですね。

不勉強なので
よく詩吟で歌っている
「川中島」だけしか思い出しませんが。


鞭声粛粛夜過河
べんせいしゅくしゅく よる かわをわたる

暁見千兵擁大牙
あかつきにみる せんぺい たいがをようするを

遺恨十年磨一剣
いこんなり じゅうねん いっけんをみがく

流星光底逸長蛇
りゅうせいこうてい ちょうだをいっす


ん?!

今!頼山陽詩選/揖斐高訳注/を開いてみると
「題不識庵撃機山図」?!
詩の題は
「ふしきあん きざんをうつの ずにだいす」に
なっていますけどね。



詩吟は音楽のひとつでしょうか。
こんな形の整っていない
読み下しの文に節をつけるより
万葉集以来の長歌やら反歌(短歌)やら
形のきれいな詩歌がたくさんあると思うのですが。

そもそも!
詩を多国の言語に翻訳するのは大変なことです。

別の詩になってしまうでしょう。

どこの国の詩にも独特の形式がありませんか。
なにより!
その国ならではの「韻(いん)」を踏むことによって
詩の美しさと感動が表現されていませんか。

韻の翻訳は不可能でしょう。

前掲の詩にも
「河」「牙」「蛇」の通押があるじゃないですが。

日本人が
行数!字数!用語!韻律!
平仄(ひょうそく)!典拠等を考えて作詩して
その果てに日本語にして読むとは、、、!?
不思議な世界ですよね!日本の漢詩は。

張競/和歌の詩歌様式を読み直す/(講演記録です)に
「漢詩の読み下しは」
「唯一詩の翻訳を可能にした」
「特殊な翻訳法」とありますが。

ただ漢詩は
「いつまで経っても」
「日本文学の中には合流できない」とも。



詩吟の発祥考えると
「漢詩を日本語で素読する」ために
飽きないようにするか!
記憶しやすいようにするか!と
考えられたものでしょうか。

それには五言絶句や七言律詩の長さが
ちょうどよかったのかも。



頼山陽は「日本外史」を著した人でしたよね。
歴史家なんでしょうか。


宝刀跨海斬鯨鯢
ほうとう うみにまたがって げいげいをきる

貝錦帰郷忽斐萋
ばいきん ききょうして たちまちひせい

阿兄不織肥家策
あけいはしらず ひかのさく

枉煮同根養牝雞
まげて どうこんをにて ひんけいをやしなふ


源廷尉(みなもとのていい)という詩。

源廷尉とは義経のこと。

これはただ判官びいきの詩。
歴史ではないですね。

頼朝と義経を
四畳半ちゃぶ台を囲んで育った兄弟と
混同してはいけません。

「血」の上下やら
武家のしきたりやら
社会の情勢やらを
忖度(そんたく)することもない
暗愚な義経は詩にはありません。

英雄化するのは
講談や立川文庫の中の世界だけで結構です。

頼山陽は
歴史を詠んだ漢詩をたくさん残していますが
こんな調子ばかり。

歴史小説家でしょうか。



とぼとぼ歩いていたら
宮武外骨(みやたけがいこつ 1867 ~ 1955)の
碑がありました。
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「威武に屈せず富貴に淫せず」
反骨のジャーナリスト。
公権力に追われて大阪に逃げてきたのですね。

かれの人生に
いろいろ批判もあるでしょうけど。

かれが生きていたら
現在の「淫」だらけのマスコミを
嘲笑するでしょうね。
それを支持する国民も。



頼山陽か宮武外骨か!
どちらにもつきたくはないですが。

ともかく
四畳半ちゃぶ台ほどの思想しかない世の中。
国家百年の計も前座の講釈師の口先ほど。



(敬称略)
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