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鳥見山 まつりのにわ [いわなが姫の丑の刻参り]

大きな円筒埴輪(はにわ)でしょうか。
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桜井市立図書館の前。(上の画像の右横)
メスリ山古墳(奈良県桜井市)から出た
日本最大級といわれる円筒埴輪を
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で
見たばかりですが(拙ブログ 2017/01/24
そのなん倍もありますね。

ん?!
今!地図を見たら
図書館とメスリ山古墳とは
地図上直線で 1km も離れていませんね。
どこにもなんの説明も書いてありませんが。

すぐ近くに等彌(とみ)神社。
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境内の広い神社です。
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天候が猫の目のように変わる日です。
す~っと暗くなれば
小心ものにはおどろおどろした樹々の中を
こわごわ進みます。

「霊畤拝所」「斎場山」「庭殿」
「白庭山」「霊畤」の案内板があります。
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より暗いところです。
カメラがフラッシュを要求しています。
ま!もっとおどろおどろしたものが
目を覚ましたらいけないので焚きませんが。
最近のコンパクトカメラはなんとか撮れますね。

登ります。

ほどなく「霊畤拝所」の大きな碑がありました。
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「霊畤」とは「まつりのにわ」と読むらしい。
そこを拝する場所なんでしょうか。

水平に倒れた木が通せん坊。
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そこから垂直になん本も幹が立っています。
こんな盆栽を作るのが好きな人がいましたね。

また石碑があります。
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等彌(とみ)神社の鳥居の横にあった境内の
案内板にあった「句碑」はこれでしょうか。
でも!これは短歌ですけどね。

この辺は小さくアップダウンしながら
尾根筋に道がつづいています。
このあたりが「庭殿」「斎場山」でしょうか。

「白庭」です!
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どんなことをするところでしょう。

やがて!
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頂上かな。
鳥見山(とみやま)の頂上ですね。
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霊畤(まつりのにわ)とあります。

初代の天皇の神武天皇が
橿原神宮あたりで即位して 4 年後
ここで
大嘗祭(だいじょうさい)を催行したそうな。

昔からやっぱり
「米」の民族なんでしょうか
収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)が
重大な催事だったのですね。
即位後
最初に行う新嘗祭を大嘗祭というらしい。
それを行う場所が
霊畤(まつりのにわ)なんですね。

しかし!橿原神宮から
地図上の直線で 7km 以上はなれていますがね。



神武天皇は
名前をたくさん持っているようですが
私たち落ちこぼれは
日本書紀に出てくるひとつ
「神日本磐余彦天皇」
(かんやまといわれひこのすめらみこと)とか
古事記によく出ている
「神倭伊波礼毘古命」
(かむやまといわれびこのみこと)だけを
かすかに覚えていますが。

いずれにしても
「いわれ」がついています。

今の桜井市あたりは「磐余(いわれ)」
東征の最後にたどり着いた地なんですね。

それでこの地を「磐余」と改名し
自らの名も「いわれ」と称したということは
確かなようです。

そして突然!
「橿原」に「宮」を建てたとは!?
阿呆には理解しがたいのですが。

それでもいいのですが
じゃ!自らを
「橿原彦」と名乗らなかったのは
どうして?!

先日登った国見山は(拙ブログ 2017/01/26
橿原の宮から 6km ばかり離れていました。
なぜ!すぐそばの畝傍山(うめびやま)から
(後の橿原の宮になる)下の地を
望まなかったのですか。

昭和になってから橿原神宮の拡張のとき
縄文時代から奈良時代に渡る
広大な遺跡が発見されたとか。

神武天皇が大和になぐりこんだころ
そのあたりにすばらしい国があったのかも。
国見山から鳥見山から
この集落を舌なめずりしてながめる
野獣の目をした神武天皇を
想像してしまいます。

畝傍山だとあまりにも近過ぎて
のぞき見するには
警戒されたりしますからね。



桜井市と隣の宇陀市の市境にも
鳥見山(とみやま)があります。
宇陀市は
記紀の鳥見山はここだと主張していますが。

そこからは
橿原は 15km ばかり離れていますね。

しかし!ハイカーや観光客の大半は
鳥見山といえば宇陀市のほうを指します。

こちらの鳥見山の
知名度が低いのはどうしてでしょう。
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