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落柿舎のたけのこ えぐい愚見 [いわなが姫の丑の刻参り]

たけの子や畠隣に悪太郎
(たこのこや はたけどなりに あくたろう)

向井去来(1651 ~ 1704)の句。

筍(たけのこ)が急激に伸びるのが面白く
いたずら好きにはたまらん相手でしょうか。

もしかしたら
隣のガキ!いや!おぼっちゃまが
筍を盗みにやってきていたのかも。

これ!孟宗竹?!

孟宗竹の渡来時期の説は
いっぱいありますが
いずれにしても
関ヶ原の戦い(1,600 年)前後かな。
とすると渡来 100 年を待たず
市井の食卓にのぼるほど
一般的な食材になっていたのでしょうか。

去来の来歴は知りませんが
都のはずれの嵯峨野に
四阿(あずまや)を建て
落柿舎と名づけて住んでいたのでは。
blog落柿舎1.jpg

そこで詠んだ句なら
京都はすでに
筍の生産が行われていたのかも。



もうひとつ疑問は畑(畠)!

この句の畑は
竹林の横にあったのでしょうか。
竹林そのものでしょうか。

京都周辺山城の国では
筍生産の竹林を
「畑」と称していますから。

「林」とか
「薮(やぶ)」じゃないのです。

現在の落柿舎の周囲には
竹林はありませんが
嵯峨野を歩けば孟宗竹によく遭遇します。

生産畑では夏にはワラを敷いて
その上に土!
それも比較的重い土を載せて
施肥しているようです。
blog落柿舎2.jpg

どう考えても!畑です。
年中!農作業をしているのです。

ちなみに積み上げていると
年々畑地が高くなって行きますが。
数メートルになったら取りつぶし
低地にもどして植え直しているようです。

早い時期から「筍畑」の
この生産方法が
確立していたのでしょうか。



先日(拙ブログ 2018/04/03
石清水(いわしみず)八幡宮のある
男山で買った京都(!)の筍。
blog落柿舎3.jpg

顔は怖いのに
心やさしい米屋のおじさんに
米も買わないのにもらったヌカと
唐辛子とで茹でておきました。

かの大陸から渡来したものなら
中華風に炒め煮にしましょうか。

といっても!
生姜もにんにくもありませぬ。
ないものは
なくてすませるにかぎりますだ。

オリーブ油でネギと干しシイタケと
豚肉を炒めます。
筍も炒め合わせて
シイタケのもどし汁と昆布だしと
日本酒をどぼどぼ加えて煮ました。
砂糖と味噌で調味。
blog落柿舎4.jpg

ごま油と醤油を香りづけ程度に振り
今!柔らかい山椒の新葉とともに
いただきます。



孟宗竹が
山城の国(京都市周囲)に入ったのは
黄檗山萬福寺の開創といっしょかも。
でも!隠元が来朝したのは 1654 年!?

明暦(1655 ~ 1658)のころ
熊野田村(大阪府豊中市あたり)に
薩摩から移植され
それから
山城の国に分譲された説もあるようです。

いずれにしろ去来の句は
半世紀経ていないですね。



あ!去来の筍は
マダケ(真竹)かハチク(淡竹)のそれかも。

孟宗竹なら地上に出てくると
もう食用にはなりません。

マダケやハチクの筍なら食べられて
悪太郎が折り取って盗んで行けます。

マダケ・ハチクも
渡来したという説がありますが
もしそうだとしたら
万葉集あたりまでさかのぼるのかも。

「梅の花 散らまく惜しみ わが園の
「竹の林に 鴬(うぐひす)鳴くも

この万葉集の歌(824)
私の頭の中には
マダケかハチクの林でウグイスが
笹鳴きする光景が浮かぶのですが。

しかし!万葉集には
「小竹(しの)」とか「さす竹」とかの歌が
多いような気もします。
研究したことはないですが。
白文で見たら「たけ」は
「多氣」と表記されていますか。

結局!全然分かりません。

ま!丈の低い笹でウグイスが
笹鳴きしたってかまいませんがね。

マダケやハチクの来歴は分かりませんが
江戸の初めになると堂々と
日本人(?)の顔をしていたことでしょう。



(佐佐木信綱編/新訓 万葉集/)参照
(敬称略)
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