観光客は知らない天神川の桜並木 [平安京有情]
阪急・京都線の西京極駅は
京都市右京区かな。
横に天神川があります。
このあたりでは南北に
ほぼまっすぐ流れています。
両側に車道があるのですが
左岸だけ小さな土手があり
細い歩道がつづいています。
歩道に桜(たぶん!ソメイヨシノ)が
おおいかぶさっています。
北に進めば五条通りを横断。
やはり同様な遊歩道が。
だいたいくもり空なんですが
小さな雨が落ちてきたり
薄日が射したり
輝度か照度か知りませんが
猫の目のように変わります。
シャッターを無造作に切れば
得られた画像の桜の色がいろいろ。
おなじ花とは思えない!はは。
多くの花の枝は
歩道よりさらに下まで垂れています。
整備され過ぎて情緒のない流れですが
舟を浮かべて仰いでお花見したらいいかも。
満開を過ぎて
さらさらと花びらが散っています。
うつせみの 世にも似たるか 花桜
咲くと見しまに かつ散りにけり
古今和歌集には散る桜の歌が多い。
私とおなじようにいにしえの人も
寂しい思いで見ていたのかな。
南唐(937 ~ 975)の寂しい君主の
李煜(りいく)の詩。
「別時容易見時難
わかるるときは よういにして
まみゆるときはかたし
「流水落花帰去也
りゅうすい らっか かえりゆくなり
「天上 人間
てんじょう じんかん
花びらは流れて
春は行ってしまったというのですね。
散る花と流水は似合うようです。
でも!花筏(はないかだ)が
今の私には切ない。
散った花びらが連なって流れ去る花筏。
ベンチがいくつか設置されていますが
広い場所はなく
観光客はまずいません。
お花見をしている人は
近所の人ばかりのような。
ちょっと小粋な屋根の休憩所はありますが
トイレはありません。
1km ばかり歩いたら
四条通りにあたりました。
細道のある堤はなくなりました。
くるまがビュンビュン走る
右岸を帰ります。
往路の桜のトンネルを傍観しながら。
待っていたら変わらないのに
あきらめて急げば
ちょっと明るくなるとは皮肉なこと。
降る花びらに濡れて
シロバナタンポポが咲いていました。
わが家に棲息している
阿倍野区最後のシロバナタンポポを
ここに仲間入りさせてもらったら、、、と
安易にムシのいいことを考えたのですが
ここもかれら(!)の
安住の地ではないですよね。
(李煜/村上哲見注/)
(古今和歌集/奥村恆哉校注/)参照
(敬称略)
京都市右京区かな。
横に天神川があります。
このあたりでは南北に
ほぼまっすぐ流れています。
両側に車道があるのですが
左岸だけ小さな土手があり
細い歩道がつづいています。
歩道に桜(たぶん!ソメイヨシノ)が
おおいかぶさっています。
北に進めば五条通りを横断。
やはり同様な遊歩道が。
だいたいくもり空なんですが
小さな雨が落ちてきたり
薄日が射したり
輝度か照度か知りませんが
猫の目のように変わります。
シャッターを無造作に切れば
得られた画像の桜の色がいろいろ。
おなじ花とは思えない!はは。
多くの花の枝は
歩道よりさらに下まで垂れています。
整備され過ぎて情緒のない流れですが
舟を浮かべて仰いでお花見したらいいかも。
満開を過ぎて
さらさらと花びらが散っています。
うつせみの 世にも似たるか 花桜
咲くと見しまに かつ散りにけり
古今和歌集には散る桜の歌が多い。
私とおなじようにいにしえの人も
寂しい思いで見ていたのかな。
南唐(937 ~ 975)の寂しい君主の
李煜(りいく)の詩。
「別時容易見時難
わかるるときは よういにして
まみゆるときはかたし
「流水落花帰去也
りゅうすい らっか かえりゆくなり
「天上 人間
てんじょう じんかん
花びらは流れて
春は行ってしまったというのですね。
散る花と流水は似合うようです。
でも!花筏(はないかだ)が
今の私には切ない。
散った花びらが連なって流れ去る花筏。
ベンチがいくつか設置されていますが
広い場所はなく
観光客はまずいません。
お花見をしている人は
近所の人ばかりのような。
ちょっと小粋な屋根の休憩所はありますが
トイレはありません。
1km ばかり歩いたら
四条通りにあたりました。
細道のある堤はなくなりました。
くるまがビュンビュン走る
右岸を帰ります。
往路の桜のトンネルを傍観しながら。
待っていたら変わらないのに
あきらめて急げば
ちょっと明るくなるとは皮肉なこと。
降る花びらに濡れて
シロバナタンポポが咲いていました。
わが家に棲息している
阿倍野区最後のシロバナタンポポを
ここに仲間入りさせてもらったら、、、と
安易にムシのいいことを考えたのですが
ここもかれら(!)の
安住の地ではないですよね。
(李煜/村上哲見注/)
(古今和歌集/奥村恆哉校注/)参照
(敬称略)