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いわなが姫の丑の刻参り ブログトップ
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まぼろしの 元祖・難波宮跡 [いわなが姫の丑の刻参り]

大阪市北区。
淀川の左岸!つまり南に
豊崎神社があります。
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御祭神は孝徳天皇ですか。
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長い間!ここが日本書紀にある
難波長柄豊碕宮(前期難波宮)
(なにわながらとよさきのみや)跡だと
いわれてきました。

が!先の大戦中から大阪(大坂)城の南の
法円坂あたりに数々の遺跡が出てきて
そこが難波長柄豊碕宮と比定されたらしい。

難波長柄豊碕宮は 652 年に
建てものができあがり
686 年に焼失したとなっていますが。

神社の由緒によれば
正暦年間(990 年ころ)に
ここに祠(ほこら)を建てたそうな。

焼失して 300 年後に
祠を建てたことになりますね。

狛犬!?
獅子?!
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頭だけありますが。

なんの説明もなく
お供えがしてあり
さい銭箱のある石があります。
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「孝徳天皇の御履脱石」があると
書かれている書もあります。
それがこれでしょうか。



淀川に出てみます。
左岸は工事中。

新淀川大橋を渡ります。
右岸の河川敷は広大なんですが
ここも工事中。
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今!ほとんどのひとが
難波長柄豊碕宮だと信じている
法円坂の遺跡を上町説ともいうとか。

豊崎神社あたりに
あったのじゃないかというのは下町説。
こちらのほうに
豊崎とか長柄の地名が残っています。

それに宮原説もあるとか。
それがこの淀川の右岸あたり?!
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この画像は河川敷。
その中にあるクリーク(!)ですが。

淀川のこのあたりは新しい流路。
明治 43 年(1910)に開削したもの。

中津川を拡幅したとか。
たしかにこのあたりに
中津の地名が残っています。
が!宮跡があったとしても
川の底で消えていますか。



川を渡り!北に歩いて行けば
阪急電車が通り過ぎて行きます。
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上の高架線は大阪メトロ。
地下鉄なのに空中を走っています。

新大阪駅に近いからか!飲食店は多い。

数分!ぐるぐると徘徊したものの
やっぱり!いつもの
「西中島海岸 海の家」へ漂着。
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ランチの定食は 600 円から 880 円。
金額にほれますね。
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イスは酒瓶の箱。
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気取らなくてもすみます。

焼魚定食(税込み 750 円)にします。
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1 種類でいいのですが。
アジ(鯵)の開きにサバ(鯖)に
ハマチ(魬)は小さな切り身。

ごはんとみそ汁はお代わり可。
みそ汁の具は多いけど薄味。

お代わりしなくても上品な私は十分。
レモンも食べて
魚は骨ごと食べてしまいましたが
アジのしっぽだけは残しておきます。
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昔!居酒屋が勘定するときに
残滓でなにを食べたか判断していました。

「なにを食べたの?
「骨ぐらい残しておいてよ。
なんていっていたので
少し!証拠を置くヘキが身についています。



(宇治谷孟著/全現代語訳 日本書紀/)
(自由国民社/読める年表 日本史/)参照
(敬称略)
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太安萬侶没後 1300年 [いわなが姫の丑の刻参り]

とぼとぼ歩いて!ふと!顔をあげれば
白骨!?
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街路樹のカシの樹皮がはがれて
さらに下部から白変して行っています。

当然!枯死していますが
だれか!葬送してあげてよ。

なんだか!最近!
「死」によく遭遇するような。
また!とぼとぼ。

古事記編纂(へんさん)者
太安萬侶(おおのやすまろ)没後 1300 年!
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橿原考古学研究所附属博物館で
特別展(2023/10/07 ~ 11/26)開催中。

入館すれば太安萬侶がいました。
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鎌倉から室町時代あたりに
作られたものらしいので
ホントの姿かどうか分かりませんか。

有名な墓誌がありました。
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これによって
太安萬侶の亡くなった日時は
はっきりしているのですね。

以前!発掘時の墓を見ていますが。
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現地に少なくとも 2 回は行っています。
最初はだれかに案内されて。
2 回目以降は
ひとりで行ったと思うのですが。

当然!埋めもどされているので
この写真はレプリカで
この博物館で見たような。



せっかくですので博物館内を見て帰ります。

銅鐸(どうたく)が年代順に並んでいます。
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初めのころは鳴らすだけのため!?
だんだん装飾がはでになったのでしょうか。

おなじように
埴輪(はにわ)も後世には
実用から離れて行ったのでしょうか。
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大きい!
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陶器の棺桶ですか。
土師(はじ)質と
須恵(すえ)質とがあるとか。

また!灰色の脳みそがつぶれそう。
土師器と須恵器の違いはなんだったやら。

須恵器は
ろくろを使って形成していたような。

ろくろを使わなくても
焼成温度が高いものは
須恵器なんでしょうか。

ひとり!
とんちんかんなこと!ほざいています。
忘れてください。



「太安萬侶墓出土品の再検討」の
研究講座の末席にもぐり込みます。
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すごい数のひとですね。
みなさん!熱心なこと。

最近!たくさんの
研究成果があったようです。

が!
膨大な情報が入ってきたら
わが明晰な(?)頭脳は
暴走しかねないので
うつむいていましたが。

ちょっとだけ聞いて帰ります。
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死後まもなく火葬。
遺骨と墓誌を骨蔵器に入れて埋葬。
20 年以上後に改葬。
そのとき!骨蔵器を新調。

すごく細かいことが判明したのですね。



あまりにも思考にエネルギーを使ったので
カロリー補給に
近鉄・橿原神宮前駅の構内の
「うめもり」で
「わさび葉寿し」を買います。
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ワサビの葉に包んだ酢めしに
「うなぎ」がのっています。
税抜き 297 円。
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この地の名物(?)「はにわまんじゅう」も。
税抜き 204 円。

包装をとってから写さないと
なにがなんやら。すみません。
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消えた巨椋池 夢の跡もない [いわなが姫の丑の刻参り]

京滋バイパスで宇治川を渡ります。
眼下に見えるのは下流です。
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このあたりに詩歌にもうたわれた
巨椋池(おぐらいけ)があったはず。

東西 4km 南北 3km はあったとか。
宇治川は巨椋池に流れ込んで
また出て行ったのでしょうか。

池の形や宇治川の流れは
豊臣秀吉をはじめ!
歴代の為政者たちが改修しているので
他の湖沼と違い
時代によって様相が違っているのかも。

左岸に降ります。
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用水路のような側溝がありますが
これは田んぼの灌漑用ではないようです。

巨椋池は干拓され農地になりました。
昭和 16 年(1941)のこと。

平均水深が 1m なかったので
極端なはなし!
排水しただけで干拓できたようです。

しかし!低地ゆえ!今も水抜きが行われ
この水路は農業用ではなく
池にもどるのをふせぐ排水路のようです。

実際!池にもどったことがあるそうな。

昭和 28 年(1958)に
台風の大洪水で池が復活したとか。

今は上流に天ヶ瀬ダムがあり
豪雨がつづいても安心らしい。

万一!洪水時に天ヶ瀬ダムが決壊したら
ふたたび!池になること必定ですがね。

現在の元・巨椋池では
農地から宅地転換が進んでいるので
大変な惨事になるでしょうなぁ。

あまり!うれしそうに
いいふらさないでくださいと
昔!宇治市役所でたしなめられましたが。



信長公記の巻六!
元亀 4 年(1573)のところに
「公方様 真木島に至りて御退座の事」の
項がありました。

公方様とは
室町幕府 15 代将軍足利義昭のこと。

将軍は家臣の真木島昭光をたよって
巨椋池の中にあった槇島城に
逃げてきたのですね。

織田信長軍は強い。

さらに
「真木島にて御降参 公方様御牢人の事」と
なっています。

簡単に義昭軍は負けたのですが
信長は首をはねる訳でもありませんでした。
義昭をはだしのまま歩かせて
秀吉が河内国の若江まで送り届けたそうな。

その「槇島城跡」の碑が
槇島公園の片隅にありました。
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さらに近くの薗場(えんば)児童公園にも
「槇島城跡」の碑があります。
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地元では
「室町幕府終焉の地」と呼んでいました。

ちなみに京阪電車でもらった
「ウォーキングまっぷ」には
おなじ地図上に
槇島公園のほうは「槇島城址」!
薗場児童公園のそれは「槇島城跡」と
区別して書いてありますが
どういう違いがあるのでしょう。

へたの考え休むに似たり!
おフランス人(フランス人に非ず)!
ニッポン語!わからな~い!



JR宇治駅にたどり着きました。

観光客多し。
飲食店高し。
高くて満席状態ばかり。

とぼとぼ歩いていたら
「ステーキのどん」がありました。
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宇治まできてファミレスでもないですが
テキトーなところもないので入ります。

大昔!まじめに(?)働いている私の仕事場に
変な!ま!
個性的な女性ばかりきていましたね。

夕方になると!毎日!弁当を数個持ってきて
「すぐ食べて」というおね~さん。
弁当工場に勤めていたらしい。
消費期限が切迫していたのかな。

夜になると
行くところも
帰りたいところもないというのが口癖の
顔もバストもヒップも
こどものように小さいけど
行動は十分すれっからしの
おとなの女の子がきていました。
とりあえず!揚げ出し豆腐か
チーズのフライを食べさせていたような。

まだ 2、3 人!
おばさんともおね~さんとも呼べない
私をアゴで指図する女性もきていたような。
忘れますだ。

ああ!そうそう!昼には「おにく~!」
「お肉!」といってきていた
お目目もバストもヒップも!てのひらも
大きな娘がいましたね。

近くの「フォルクス」で
「お肉」を食べさせていたような。

訳の分からん!暗黒の時代でした。

そのフォルクスは
「ステーキのどん」の
前の店名だったような。

なにを食べますか。
なにか!昔の幻影に疲れました。

メニューに大きく書かれていた
「黒胡椒にんにくポークグリル」でいいです。

ごはんとパンとスープは食べ放題!?
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とりあえず!それを食べていたら
グリルがくる前に
おなかいっぱいになりましたが。はは。
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税込み 869 円。



(太田牛一著/
   信長公記/桑田忠親校注/)参照
(敬称略)
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天王寺駅は寄せ集め カレートーストセット [いわなが姫の丑の刻参り]

JR天王寺駅の 1 番線から 9 番線の
くし形のホームは
通称・阪和線ホームといわれています。
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阪和線!関西空港線!紀勢本線に
利用されていますが。

1 階下に
11 番線から 18 番線のホームがあり
そちらのほうがにぎやかなような。

大阪環状線!関西本線や
阪和線!関西空港線!紀勢本線の
この駅が始発駅ではない電車!
たとえば!特急「くろしお」なんかが
停まっています。

関西本線は関西鉄道が敷設し
大阪環状線は 3 私鉄と
国鉄の 6、7 路線をつなぎ合わせて
最近(1961 年)丸くなりました。

地上(!)のくし形ホームは
阪和鉄道のものでした。

それらがみんなJRになった今!
天王寺駅は複雑な構造です。

その上!この前までは
南海電鉄の駅までありました。

くし形ホームを覆う大屋根は
阪和鉄道時代のものらしい。

つまり!
昭和 4 年(1929)開業時のものが
戦火の中でも生き残ったようです。



1 番線の端っこの「麺家 天王寺」が
早朝 7 時からオープンしています。
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「朝しゃけごはん定食」をいただきます。
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ごはんに
鮭のフレークをかけてくれました。
税込み 360 円。

ちなみに 18 番線の階上あたり
東改札口を入ったところに
「麺家 みちくさ」があります。

ふたつはおなじ系列でしょう。

「麺家 みちくさ」には漢字がいっぱいの
「朝鮭ご飯定食」です!はは。
内容も値段もおなじですが。



正午ころに通ったら
降車専用の 9 番線ホームに
「カレーと珈琲の店 カフェプレスト」が
営業していました。
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あるお年寄りたちが
「ランチになにを食べたか?」と
どうでもいいことを聞きますが
でも!正直に「カフェプレスト」で
コーヒーと
カレーとトーストだと答えました。

すると!
「そんな食べ方はないやろ」
朝の残りのトーストを恵んでもらって
喜んでいると茶化す情けないひとたち。

はったおすぞ!と心の中で叫びます。

ちゃんと!メニューにあるのです。
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「カレートーストセット」!
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カレーはすごくミニサイズですがね。
コーヒーがついていて!税込み 700 円。

これこそ!年寄りたちに
ちょうどいい分量では。
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日本の国名の初め 井真成の墓誌 [いわなが姫の丑の刻参り]

住宅街の向こうに大きな船が見えます。
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藤井寺市の生涯学習センターの
「アイセル シュラ ホール」ですね。
舟形の埴輪の意匠をまねているらしい。

井真成(せいしんせい or いのまなり)が
帰国している(?)と聞いたので
行ってみます。

日本の国名はいつから使われたのかと
ひと月ばかり前!自称・有識者たちが
酒の肴にしていました。
私はだいぶ(!)賢い(?)ので
そんなハラの足しにもならない議論に
加わりませんが。

「日本」はすでに
井真成の墓誌に刻まれているとか。
その墓誌が
西安から里帰り(?)していると
そのとき!小耳にはさみました。

井真成とはなにものでしょう。
遣唐使でしょうか!
留学生だったのでしょうか。
それらから官吏になったのでしょうか。

その墓誌があるのは
「アイセル シュラ ホール」です。

たしかに!墓誌はありました!
レプリカでしょうけど。
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2006 年ごろから展示しているらしい。
なんですか!私は
それ以後 2、3 度はここにきています。
なんにも考えずに通り過ぎていましたね。

なるほど!
「姓井字真成國号日本」
日本の井真成とありますね。
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井真成は 734 年に死んだのですか。
それは奈良時代ですね。
そのころ「日本」の国名は
認識されていたのですか。

ふと!思いました。
これ!ホントの拓本!?

「真」や「号」はこの字なんですか。
「姓井字眞成國號日本」と
書いていたのでは?!

白鳥の大きな埴輪に聞いても
答えてはくれません。
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これは津堂城山古墳から出たものですが
天皇陵ではないので
発掘が行われていたのでしょうか。
允恭天皇陵の説がありますが
宮内庁の治定を疑えばきりがありません。



仲哀天皇陵古墳のふちを回って帰ります。
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昔!ここで
「仲哀陵とは!宮内庁の」
「比定(ひてい)が間違っている」と
私がいえば
「治定(じじょう)がおかしい」と
郷土史家(?)のおじさんが主張。

「比定が間違い」
「治定がおかしい」
いいあっていたら(?)
だれかが
「おなじことでしょ」と止めました。

ははは。
その通りなんですが。
どうして!今!唐突に
そんなことを思い出したのでしょう。

めまいがするほど蒸し暑いから。

古墳のふちにパンパスグラス(?)が
ずっとつづいています。
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仲哀陵と並んでいる
鉢塚古墳にのぼってみます。
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辛國(からくに)神社に寄ります。
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「からくに手づくり市」開催中。
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暑いのに!ご苦労さまです。

葛井寺(ふじいでら)です。
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葛井寺は藤井寺でしょうか。
それでか!境内には藤だらけ。
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花が咲いていますね。
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これ!なんというフジ!?
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真夏のノダフジは
こんな咲き方をするのでしょうか。



暑い!
死なないうちに撤退しましょう。

近鉄・藤井寺駅の構内というのか
くっついているといえばいいのか
そんなところに食堂(たぶん?)の
「味咲亭(あじさいてい)」がありました。
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もう他店を見る気力がないので
ここでランチにします。
「日替わり定食」でいいです。
なんでも食べられます。
少々まずくても!
おいしい顔で食べているらしい。

「チキン南蛮」でした。
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おいしかったですよ。
税込み 720 円。
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