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飛鳥 石舞台 [いわなが姫の丑の刻参り]

飛鳥(明日香村)の石舞台古墳を見降ろして
人生の反省をしています。(信用できませんが)
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石舞台の東北の小さな丘の上です。
全景がよく見えます。
無料の園地ですが
観光客はまずやってこないので
観光シーズンでも喧騒(けんそう)はありません。

石舞台の西側や南側に広い芝地があるので
お弁当広場に使っているグループは多いのですが
石舞台より低いので石舞台は見えません。

なので!ランチの後は入場料を払って
見学するのが常道になっているようです。

私だって入場料を払ったことが 2、3 度ありますよ。
談山神社から下がってきたときが最後ですかね。
それはいつだったのか!大昔のことです。
だれといっしょだったのか。
たぶん!ひとつの恋があったはず!
思い出さない方がいいようですね。あは。

入場料は 250 円。
安いですね。
安さに魅入られた訳でもないのですが
ふらふらと入ってしまいました。

入ったところにキクモモが咲いていました。
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小学生や高校生が佃煮にするほどいます。
しっかり勉強するんだよ。
私がいっても値打ちがないですけど。

西側で記念撮影をするものらしい。
じゃ!反対側でカメラを構えましょう。
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いつ見ても大きな石室!
これだけの石を運んできて積み上げるなんて!
感嘆詞しかない無学が辛い。

石室がどうしてむき出しなのか。
被葬者はだれなのか。
昔から
蘇我馬子(うまこ)の墓だといわれてきたそうですが
それでも諸説もたくさんあるようです。

なにか新説を唱えたり
想像をたくましくさせる魅力を感じさせます。

手塚治虫は
火の鳥・ヤマト編という
コミカルな珍説を書いています。
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どの諸説にもごもっともとうなずく
節操と教養のない私ですが
春の日にぼんやりながめていたら
めぐりめぐって!やっぱり
蘇我馬子の墓で
墳丘は初めからなかったのではなく
懲罰のために封土をはがされたという
平凡な説に落ち着いてしまいました。
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推古天皇の 34 年(626 年)に馬子は死んでいます。

推古天皇はその 2 年後に崩御。

次の天皇が決まっていなくて
てんやわんやのとき
  蘇我氏一族は馬子の墓を築き
  墓地の近くに仮小屋を建てて宿泊していた
  (日本書紀/福永武彦訳)

その大変なとき
有力豪族が一族あげて宿泊するところは
遠方地じゃないような気がします。
このあたりが適地のような。

乙巳の変(大化の改新)後に
権力によって石室の封土をはがされたのでは。

このようにむき出しになれば
長い間に大石は破壊されるか
土木・建築資材に流用されるはずですが
みせしめとたたりをおそれて
風雨にさらされるままに今日まできたのかも。
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馬子とは変な名前ですね。

おそらく本名ではありますまい。

日本書紀の編纂を裏で牛耳っていたものに
よほど強い怨念があったものとみえます。

馬子の父親が稲目(いなめ)
こどもが蝦夷(えみし)
その子が入鹿(いるか)
日本書紀で本名を書き換えていますね!きっと。

いつの世も勝った方の記録しか残りません。
権力者は本名でも戒名でも
好きなように改名してくれますよ!ありがたいことに。

称徳天皇は和気清麻呂を
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させたし
ほんのこの前まである人々に
戒名には動物の名前を入れろと強要していた
為政者もいたようですし。
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しかし!蘇我一族は大変な人数なのに
この系統だけです!
にくにくしげに動植物の名を当てはめているのは。

他の蘇我一族は平凡な?名前です。
たとえば馬子の兄弟でも
摩理勢(まりせ)!
小姉君(おあねのきみ)!堅塩媛(きたしひめ)!とか。

国家とか皇族とか社会とかは関係なく
これはもう個人的な怨念ですね。
稲目!馬子!蝦夷!入鹿だけに対して。
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  ここに埋葬された大昔の王さまは
  きっと中途半端な気持ちで死んでいったのでしょう
  それにはもしかしたら
  いろいろ家庭の事情があったのかも

火の鳥・ヤマト編はそう結ばれていました。

(敬称略)
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