比叡山 玉体杉から仰木峠へ [野道!山道!恋はけもの道!]
安楽庵策伝(1554 ~ 1642)著/醒睡笑/に
比叡山の「北谷」という単語がよく出てきます。
地図を広げると
比叡山ひと山全部が延暦寺のような広い境内の北に
横川(よかわ)中堂中心に堂宇がかたまっている
横川エリアがありますが。
そこが「北谷」でしょうね。
策伝はまた
まれに「南谷」ということばも書いていますが。
横川から見れば
釈迦堂を中心の西塔(さいとう)エリアも
延暦寺を代表する根本中堂のある東塔地域も
それに無動寺あたりも
みんな南に集結しているように見えますが。
西塔から横川を目指します。
5km たらずの尾根道ですが。
モミ(樅)の木の自然林があります。
あ?
モミの木!そんなに数がないですね。
スギ(杉)の方が多いような。
モミの木は残らなかった!
山本周五郎の伊達騒動を書いた小説は
「樅ノ木は残った」ですけどね。
ここは「回峰行道」と呼ばれています。
千日回峰行の道でしょうか。
もっとも千日回峰行は
初年から 3 年は
1 日 30 数km を 1 年に 100 日歩くのだそうな。
4、5 年は毎年倍の 200 日歩かねばならぬとか。
6 年目は 1 日 60km 100 日。
7 年目の前半には 1 日 85km 100 日。
後半はまた最初にもどって 1 日 30 数km 100 日。
人間ワザじゃないですね。
だから!この道も
そのほんの一部に過ぎないのでしょうけど。
また「横川 元三(がんざん)大師道」の
「丁石」が案内してくれる道でもあります。
元三大師とは良源(912 ~ 985)のこと。
慈恵大師という諡号(おくりな)はあるのですが
正月 3 日が命日なので
通称の「元三」が定着したようです。
天台宗の中興の祖で
横川に住んでいたので
そこへつづく道のいくつかは
「元三大師道」と呼ばれているようです。
今!神社仏閣で稼ぎに稼いでいる(失礼!)
「おみくじ」を考え出した人だそうですよ。
千日回峰行は
首吊り用の紐!自害用の宝剣!
三途の川の渡し賃の六文銭を持参して
歩いているそうな。
行をつづけられなくなったときには
死ねということ!
2 度も回峰行を満行した
酒井雄哉大阿闍梨(だいあじゃり)は
「命尽きたら」
「そこで埋めてもらって他の命を支える」
と考えられるようになったときに
うれしい気がしたそうな。(著書/一日一生)
朝昼兼用におにぎりひとついただきます。
足元にアリ(蟻)が寄ってきました。
ごはんを分け合って食べましょうか。
ほんのささやかな施しですが
私の生飯(さば)を受けてください。
生飯は禅宗の世界のことばかも知れませんが。
玉体杉です。
行者がここから遠く御所を拝して安寧を祈るところ。
玉体杉から少し進めば四つ辻。
東海自然歩道と
京都一周トレイルコースとが
ずっと同じ道だったのですが
ここで分かれます。
東海自然歩道は右へ!横川中堂に向かいます。
京都一周トレイルコースはまっすぐ横高山へ。
横高山に登ります。
急坂とは知っていましたが。
あまりにも急勾配で
めまいがして!ころがり落ちそう。
そんな思いで登った横高山 767m 。
こんなに見晴らしが悪かったですか。
隣の水井山に行ってみましょうか。
一度鞍部に降りて!また大変な急坂。
死にそうになって水井山 794m 。
やっぱり!なにも見えません。
記憶違いでしょうか。
見晴らしがよかったのは。
記憶力は元からよくありません。
さらに最近! 困ったものです。
幾度か歩いている山道さえも数年空けると
まったく記憶が抜け落ちています。
このあたり
玉体杉経由の道は
比較的好きで!いい印象があり
はっきり記憶があると確信していたのですが。
考えてみれば
もう××十年ここにきていませんね。
全然心にあるイメージと違うじゃないですか。
樹木が成長したりして
地球は常に変化しているので
当然といえば当然ですが。
仰木(おおぎ)峠へ目指して下ります。
仰木峠。
大昔は牛馬に乗った花嫁が休憩したところ。
恋も詩も生まれた爽やかな印象ばかり。
途中でまた東海自然歩道と合流して
杉と桧の混成林の中を進めば仰木峠。
ん!?
爽やかではありません。
こんな薄暗いところでした?!
もうなにがなんやら。
もうもう思い出なんか馬に蹴られて飛んで行け!
早々に立ち
今度は京都一周トレイル道を左に見送って
大原の里へつづく東海自然歩道をとります。
道に白い花びらが散り敷いています。
エゴの花でしょうか。
この道も元三大師道だそうです。
(敬称略)
比叡山の「北谷」という単語がよく出てきます。
地図を広げると
比叡山ひと山全部が延暦寺のような広い境内の北に
横川(よかわ)中堂中心に堂宇がかたまっている
横川エリアがありますが。
そこが「北谷」でしょうね。
策伝はまた
まれに「南谷」ということばも書いていますが。
横川から見れば
釈迦堂を中心の西塔(さいとう)エリアも
延暦寺を代表する根本中堂のある東塔地域も
それに無動寺あたりも
みんな南に集結しているように見えますが。
西塔から横川を目指します。
5km たらずの尾根道ですが。
モミ(樅)の木の自然林があります。
あ?
モミの木!そんなに数がないですね。
スギ(杉)の方が多いような。
モミの木は残らなかった!
山本周五郎の伊達騒動を書いた小説は
「樅ノ木は残った」ですけどね。
ここは「回峰行道」と呼ばれています。
千日回峰行の道でしょうか。
もっとも千日回峰行は
初年から 3 年は
1 日 30 数km を 1 年に 100 日歩くのだそうな。
4、5 年は毎年倍の 200 日歩かねばならぬとか。
6 年目は 1 日 60km 100 日。
7 年目の前半には 1 日 85km 100 日。
後半はまた最初にもどって 1 日 30 数km 100 日。
人間ワザじゃないですね。
だから!この道も
そのほんの一部に過ぎないのでしょうけど。
また「横川 元三(がんざん)大師道」の
「丁石」が案内してくれる道でもあります。
元三大師とは良源(912 ~ 985)のこと。
慈恵大師という諡号(おくりな)はあるのですが
正月 3 日が命日なので
通称の「元三」が定着したようです。
天台宗の中興の祖で
横川に住んでいたので
そこへつづく道のいくつかは
「元三大師道」と呼ばれているようです。
今!神社仏閣で稼ぎに稼いでいる(失礼!)
「おみくじ」を考え出した人だそうですよ。
千日回峰行は
首吊り用の紐!自害用の宝剣!
三途の川の渡し賃の六文銭を持参して
歩いているそうな。
行をつづけられなくなったときには
死ねということ!
2 度も回峰行を満行した
酒井雄哉大阿闍梨(だいあじゃり)は
「命尽きたら」
「そこで埋めてもらって他の命を支える」
と考えられるようになったときに
うれしい気がしたそうな。(著書/一日一生)
朝昼兼用におにぎりひとついただきます。
足元にアリ(蟻)が寄ってきました。
ごはんを分け合って食べましょうか。
ほんのささやかな施しですが
私の生飯(さば)を受けてください。
生飯は禅宗の世界のことばかも知れませんが。
玉体杉です。
行者がここから遠く御所を拝して安寧を祈るところ。
玉体杉から少し進めば四つ辻。
東海自然歩道と
京都一周トレイルコースとが
ずっと同じ道だったのですが
ここで分かれます。
東海自然歩道は右へ!横川中堂に向かいます。
京都一周トレイルコースはまっすぐ横高山へ。
横高山に登ります。
急坂とは知っていましたが。
あまりにも急勾配で
めまいがして!ころがり落ちそう。
そんな思いで登った横高山 767m 。
こんなに見晴らしが悪かったですか。
隣の水井山に行ってみましょうか。
一度鞍部に降りて!また大変な急坂。
死にそうになって水井山 794m 。
やっぱり!なにも見えません。
記憶違いでしょうか。
見晴らしがよかったのは。
記憶力は元からよくありません。
さらに最近! 困ったものです。
幾度か歩いている山道さえも数年空けると
まったく記憶が抜け落ちています。
このあたり
玉体杉経由の道は
比較的好きで!いい印象があり
はっきり記憶があると確信していたのですが。
考えてみれば
もう××十年ここにきていませんね。
全然心にあるイメージと違うじゃないですか。
樹木が成長したりして
地球は常に変化しているので
当然といえば当然ですが。
仰木(おおぎ)峠へ目指して下ります。
仰木峠。
大昔は牛馬に乗った花嫁が休憩したところ。
恋も詩も生まれた爽やかな印象ばかり。
途中でまた東海自然歩道と合流して
杉と桧の混成林の中を進めば仰木峠。
ん!?
爽やかではありません。
こんな薄暗いところでした?!
もうなにがなんやら。
もうもう思い出なんか馬に蹴られて飛んで行け!
早々に立ち
今度は京都一周トレイル道を左に見送って
大原の里へつづく東海自然歩道をとります。
道に白い花びらが散り敷いています。
エゴの花でしょうか。
この道も元三大師道だそうです。
(敬称略)
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