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まぼろしの多聞城 [南都有情]

奈良市立若草中学校の
門扉が開いていたので
無断で少しだけ侵入しました。

すみません!こらえてつかぁさい。

ここまで急坂をあがってきたのですが
さらに石段があり
その上に校舎が見えます。
blog51多聞城跡.jpg

石段の脇に
「多聞城跡」の碑があります。

大昔に多聞城(多聞山城)を訪ねようと
観光案内所で尋ねたら
中学校に行けば分かるといわれ
この前まできましたが。

門扉がしっかり閉まっていただけ。
それから
うらみだけ残って無視してきましたが。

校庭に入れてもらったからって
なにもありませんね!碑以外は。

校門の前に説明板はできていましたが。
blog52多聞城跡.jpg

競り合う家屋のすき間に
東大寺の大仏殿が見えます。

松永弾正久秀(1508 ~ 1577)が
築城したとき(1564)には
一大武闘勢力でもあった興福寺や
東大寺が眼下にあったことでしょう。

石垣の多用!白くて厚い壁!瓦葺き!
後に多聞櫓(やぐら)と称される櫓の数々!
安土城以降の城郭建築の
手本のような城だったそうな。

安土城築城で織田信長は
石垣として使えるものなら
墓石でも石仏でも流用したそうですが
松永久秀が先に実行していたとか。

今もそんな石がよく出てくるそうな。
blog59.jpg

その信者でなければただの石ですからね。
分かるような気もします。



今はなにもありません。

少なくとも素人が
考察できるような分野ではないような。

中学校の東の空中に橋があります。
blog53多聞城跡.jpg

校舎とグラウンドを結ぶ渡り廊下(?)かな。

これが掘り切り跡らしい。

さらに北側にも急斜面がありますね。
blog54多聞城跡.jpg

南側には佐保川があります。
北は急峻な崖で守ろうとしていたのかも。



若草中学校の西側に光明皇后陵。
blog55多聞城跡.jpg

さらに聖武天皇陵とつづいています。
blog56多聞城跡.jpg

この陵も多聞城だったらしい。

光明皇后陵と聖武天皇陵の間にも
堀を造っていたとか。

つまり多聞城はふたつの陵を
利用して!もっといえばつぶして
築造されていたようです。

このこんもりとした陵の形は
1,250 年前の天平の姿じゃなったのですね。

江戸幕府が宇都宮藩に命じた
文久の修陵(1863 ~ 1865)で
今の形にしたのでしょうか。



松永弾正が築城する前には
この丘は
眉間寺山と呼ばれていたといいます。
眉間寺があったから?!

聖武天皇陵に大きな建造物の
礎石がころがっていたりします。
その寺院の跡かも。

寺は弾正に追い出され
廃城後にもどってきたのかも知れませんが
文久の修陵時にはやっぱり、、、?!

そのすぐ後に明治維新がきます。
天皇陵の上にあるなんてけしからん?!
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の波に
消されてしまったのでしょうか。

眉間寺は煙のように消えて
この寺のこと!
奈良市もなんにもふれません。

忖度(そんたく)しているのかも。

三笠山を忖度から
若草山に名称変更しているのも
奈良市はなんにもいいませんから。



街の中に降りてきました。

古そうな町家に
丸い明かりが点っています。
blog57.jpg

「かやく」?!
「火薬」ですか?!
勇ましい!
松永弾正の雄叫びが聞こえます。

「かやく飯定食」とありました。

「火薬」ではなく
「加薬ごはん」でしたか。

「かやくごはん」とは関西のことば!?
私は「炊き込みごはん」が
大阪弁だと思っていましたが
逆でしょうか。

「かやく飯定食」は売り切れだそうな。

干物定食(税込 900 円)をもらいます。
blog58.jpg

カマスの干物とかやくごはん。

上品ですねぇ。
私の食欲への忖度はありませんね。
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