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ときめきは ぶさ可愛い顔のとき [うそ八百]

大みそかです。
私のあしたはどうなるのでしょう。
ま!放っておけば
暦は替わるでしょう!勝手に。

みなさん忙しそうですが
私はなんにもすることがありません。

TVも特番ばかりで見るものもありません。
あ!普段でも見ることはまずないですが。
最近は「香川照之の昆虫すごいぜ!」を
見たぐらいかな。
この 1 週間に 2 度も!すごいぜ!はは。

TVの普及は「一億総白痴化」といった
大宅壮一のことばは半世紀過ぎても死なず。

「一億総白痴化」初期のこどもや孫が
番組を制作すれば!おのずから!ますます。

ま!TVを見なくても
私のように阿呆は賢くはならず
愚鈍のままですけどね。



お湯割りのウイスキーをなめながら
来し方(こしかた)を思います。
思いたくはないのですが。

「来し方は くるしみとまた かなしみと
「鳥は飛び去り 花はまぼろし

どこかで聞いたような!
だれかの変な(失礼!)短歌が浮かびます。

では!除夜の鐘まで
廉価なウイスキーを
到来もののブランデーに替えて
橘曙覧(たちばなあけみ)風に
拙ブログ 2017/08/31
短歌(もどき!)を作りましょうか。

曙覧(あけみ)の
「独楽吟(吟の正字は口偏に金)」は
みんな「たのしみは」から始まって
「時」で終わっています。

淫靡(いんび)なことしか念頭にない私は
(あ!謙遜していっているのですからね)
「ときめきは」で初めて
「とき」で終わりましょう。

どうでもいいことですが

「淫乱がこの人の正常」
「猥褻(わいせつ)でなくなったら」
「発熱かビョーキになっているから」
「みなさん!注意してあげてね」

おい!お~い!
西成の居酒屋の女将さん。
それ!私のこと!?
いつもみんなにいっていますが!
あんまりじゃないですか。

「ときめきは
「桜はらはら ぶよはらはら
「公孫樹(いちょう)はらはら 冬がくるとき

だめですね。
短歌のセンスは皆無と分かっているのですが
それでも!最初にこんな妙な歌を作ったら
後がますます変になりそう。



でも!後には引けず
酔いにまかせて!行きますよ。


「ときめきは
「落ち葉を踏めば 陽だまりに
「乾いた音が 追いかけるとき

「ときめきは
「人みな去りて おおみそか
「公園の落葉 よごされぬとき


はは!似合わない表現はやめましょう。

遠い日にあなたと歩いた京の街を思います。


「ときめきは
「祇園宮川 先斗町
「きみのうなじが 遠ざかるとき

「ときめきは
「定子(ていし)の眠る みささぎで
「熱い吐息が 白くなるとき

「ときめきは
「鴨川に舞う ゆりかもめ
「みだらな誘い いえず見るとき

「ときめきは
「だれと縁切り 金比羅宮
「くぐる どや顔が ぶさ可愛いとき
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安井金比羅宮の
縁切り縁結び碑(いし)の穴に
くぐるときにパンツが見えてますよ。
でも!くぐりなおして帰ってくるときの
ゆがんだ顔が愛らしく
お尻丸見えより色気があるような。



ああ!いけません。
やっぱり!
みだらなことを想像してしまいます。

短歌はすべて
一人称詩だと聞いたことがありますが。

俳句とは違いますかねぇ。

芭蕉の句の
「さみだれを集めてはやし最上川」は
「さみだれの集まり」ではないですね。

最上川が主語!?
でも!最上川を見ているのは
一人称ではありませんか。

論点がずれていたら!ごめんなさい。

源氏物語にある 800 首の短歌は
みんな紫式部が作ったに違いありません。

かの女はその人になりきって
詠んだのでしょうから
私も男や女やオカマ(!)になりきります。


「ときめきは
「恋は一秒と うそぶけば
「カネは一生と さばかれるとき

「ときめきは
「酢みそをつける ほたるいか
「目玉を食べる 好みが合うとき

「ときめきは
「相性の悪い 明石焼きを
「好きと聞かれて 好きというとき

「ときめきは
「みかんの袋を ひとつずつ
「はさみで開ける 指を見るとき


くだらねぇ!
それが私の人生のすべてかぁ!
でもまだまだ。


「ときめきは
「今湯あがりと いう人の
「電話の声が 濡れているとき

「ときめきは
「剃毛(ていもう)のない オペだった
「見る?とおどける 退院のとき

「ときめきは
「ラブホのトイレで 眠りだす
「泥酔女の いたいけなとき


わ~い!完全に酔っ払ってしまいました。
なにか!隠しておきたいことでも出てきそう。


「ときめきは
「ブランデーを飲む 女装たち
「小指を立てて グラス持つとき

「ときめきは
「しあわせそれとも ふしあわせ
「匂いに酔って 考えないとき


あああ!暦が替わる~!
遠くから除夜の鐘が聞こえます。

「ときめきは
「十万億土の 除夜の鐘
「清水寺が 幽遠(ゆうえん)のとき

京都・東山の清水寺の除夜の鐘を
107 番めに撞いたことがあります。
最後の 108 番を撞きたかったのですが
それは僧侶かだれか寺の方の役と
決まっていたのでラス前。

「ときめきは
「あのとき夫婦と まちがわれ
「刹那(せつな)凍った きみを見たとき

あ!別れて久しいけど
あなたはきっと
このブログ!読んでいますよね!
死ぬまでナイショにしておいてね。

ああ!いけません。
ひとつの短歌に「とき」を重ねて使うなんて。
それ以前の問題ですがね。



あんまり
「ときめき」ではない歌になってきました。

新年(2020/01/01)になりましたね。
初日の出を見に行きますか。

京都か神戸か須磨か!
昨日まで考えていましたが
まだ決めかねています。

メンドくさい!
大阪市内ですませますか!?

優柔不断な性格は変わらず。



(佐佐木幸綱著/万葉集の<われ>/)参照
(敬称略)
タグ:源氏物語
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青もみじ 貴船川 [うそ八百]

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(貴船川)

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(川床)


青もみじ 匂うごと
染まるごと まぶしくて

つかのまの 梅雨晴れの
風絶えた 貴船川

この指に この胸に
ぬくもりが よみがえる

いくたびの ゆきずりは
思い出に するべし、か


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(いわながひめ 結社)

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(青もみじ絵馬)


うらむまい さだめなら
それぞれの かつらの葉

妹は さくや姫
妹も また一期(いちご)

ときはずれ 散ることも
ままならぬ ふくろ花

うわさでも ある人は
しわわせと いうべし、か


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(貴船神社奥宮)

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(大杉並木)


くり返す おろかさに
どこで鳴る 水ぐるま

白昼の せせらぎに
まぼろしの 蛍飛ぶ

うらなえば 人の子は
むなしさが なおつのる

つぎの世に ゆだねたら
すみやかに 行くべし、か


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(貴船神社参道)

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(水占みくじ)
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年年歳歳 花あい似たり [うそ八百]

「年年歳歳 花あい似たり
「歳歳年年 人おなじからず

うつろい変わる人の世で
花は季節を忘れず
おなじように咲くというのです。

この詩句は
劉希夷(りゅうきい 651? ~ 679?)の
けっこう長い詩の
「代悲白頭翁」の中にあるのですが。

劉希夷は初めに

「年年歳歳花相似
「歳歳年年人不同

の詩句を思いつき
そこからふくらませて
ひとつの詩にしたそうな。

この詩人の生年月日がよく分かりません。
資料によってもまちまち。
7 世紀の
唐の人ということはたしかですが。

この詩句を
舅(しゅうと)が譲るようにいったとか。
拒否したので
怒った舅が
どこかへ埋めたというはなしが
残っています。
だから亡くなった日が分かりません。

眉唾(まゆつば)もののようなはなし。
舅が殺したのなら
この詩句は舅が発表しているはず。



と!ここまで昨年書いています。
1 年放置していたら
また春がめぐってきました。はは。

夜!帰宅すれば(2019/04/06)
わが家の前の桃ケ池の畔がにぎやか。
お花見の人たちですね。
外国語のグループもいくつか。

桜(ソメイヨシノ)がほぼ満開。
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遅咲きの花桃とコラボ。
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私の腕では向こうの桜は写りませんが。

ハナナとユキヤナギ。
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今年はユキヤナギが元気。
一番ダイナミックに咲いています。



劉希夷は酒を飲みながら
琵琶を弾いて作詩したという人もいますが。
(作詞かも? 拙ブログ 2017/06/07

私は!酒は嫌いで!弱い。
ひと口飲んだら酔っ払います。
酔っ払ってからが!しつこいそうな。
ま!うすうす自分でもそう思います。
普段!
エログロナンセンスで生きていますが
某居酒屋の女将がいうには
私は飲むほどに!酔うほどに!
グロとナンセンスが消えるといいます。

ビールなら 4、5 本飲んだだけで
エロだけが残り
得意(?)の人の悪口と
ごちゃまぜにしていうそうな。

先ほどまでフカといわれている
(フカが酒を飲むのかどうか知りませんが)
発情おね~さん方に強要(?)され!
大酒をくらい!
たぶん!エロばなしの大風呂敷!
たぶん!嫌われていました。

劉希夷の酔いにまかせた詩なら
今!読むのがいいような。



代悲白頭翁
(はくとうをかなしむおきなにかわりて)

洛陽城東桃李花
飛來飛去落誰家
洛陽女児惜顏色
行逢落花長歎息

勝手に段落を作って
勝手に訳します。

「花咲く春だ 鳥も鳴く
「おとめの胸は はちきれて
「男をふるい 立たせても
「花散るときの 切なさよ

細かいおとがめはしないでくださいね。



今年花落顏色改
明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪
更聞桑田變成海

訳します。

「天空焦がす 太陽も
「火花とおなじ さだめなら
「あしたの山は 海となる
「恋する人も 砂になる



古人無復洛城東
今人還對落花風
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
寄言全盛紅顏子
應憐半死白頭翁
此翁白頭真可憐

ここは大変!
イメージ貧困で訳せません。
訓読を。

「古人(こじん)また 洛城の東になく
「今人(きんじん)また対す 落花の風
「年年歳歳 花あい似たり
「歳歳年年 人おなじからず
「言(げん)をよす 全盛の紅顔子
「まさにあわれむべし 半死の白頭翁
「この翁の白頭 真に憐むべし



伊昔紅顏美少年
公子王孫芳樹下
清歌妙舞落花前
光禄池臺開錦繍
將軍樓閣畫神仙
一朝臥病無相識
三春行樂在誰邉

再び訳します。

「みにくい姿 恥ずかしや
「十六七は いつのこと
「袖振るだけで 匂い立ち
「男は酔って きたものを
「宴はとわと 疑わず
「浮かれて飛んだ 春弥生
「振り向く丘の 蜃気楼



宛轉蛾眉能幾時
須臾鶴髪亂如絲
但看古來歌舞地
惟有黄昏鳥雀悲

最後の章!行きます。

「老いさらばえて 死ぬさだめ
「思い出なんか なんになる
「忘れることが しあわせか
「忘れることが しあわせだ



女の詩として訳しましたが
これ!男歌でしたね。はは。

しかし!これは訳ではありませんねぇ。
断らなくてもいいですけどね。
ただの思いつきです。

酔っ払いは寝ますだ。



(一海和義著/漢詩一日一首/)参照
(敬称略)
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三月三日幻想 麗人たちの宴 [うそ八百]

昨日(拙ブログ 2019/03/02
二条城の梅の花にあたって(?)
脳裏が真っ白になりました。

1 夜明けたら
喉(のど)と股間(!)に違和感が。

早朝の予定を取りやめ横になっていたら
ずっと寝入ってしまって
午後の予定もキャンセルするはめに。
なにもしないうちに!
中途半端なビョーキのまま!
夜になりました。



病気になったり
不幸になったり
加齢が進むと
古来!人は望郷の念が起きるものらしい。

6 世紀の梁の「文選」にある
「古詩十九首」の中にも。


去者日以疎
(さるものは ひびにもってうとく)
生者日以親
(いくるものは ひびにもってしたし)
出郭門直視
(かくもんをいでて ちょくしすれば)
但見丘與墳
(ただ おかと つかとをみる)
古墓犁爲田
(こぼはすかれて たとなり)
松柏摧爲薪
(しょうはくは くだかれて たぎきとなる)
白楊多悲風
(はくよう ひふうおおく)
蕭蕭愁殺人
(しょうしょうとして ひとをしゅうしょうす)
思還故里閭
(こりのりょに かえらんことをおもう)
欲歸道無因
(かえらんとほっするも みち よるなし)


訳詩!作ります。

「人は生き 人は逝く
「思い出は 消えて行く

「振り向けば かげろうに
「ただ丘と 塚がある

「墓もない 松もない
「まぼろしを 見たらしい

「初めから いつわりの
「風だけが 吹いていた

「ふるさとと “おっぱい”は
「追うほどに 遠くなる

熱にうなされていますね。
“おっぱい”は恥ずかしいので
“片恋”とでもいい換えて
人にはいいますか。

ま!望郷の念がない私が訳したら
情緒もなにもないですね。



桃の節句ですね。

「三月三日
「四民並びに江渚池沼の間に出で
「清流に臨んで流杯曲水の飲を為す

日本に大きく影響を及ぼしているらしい
6 世紀の荊楚(けいそ)歳時記の
3 月の行事にありますが。

「流杯曲水の飲」とは!?

「曲水の宴」(拙ブログ 2009/11/04)なら
その様式美(?)を見たことがありますが。

杜甫(712 ~ 770)も見たらしい。


三月三日天氣新
(さんがつみっか てんきあらたなり)
長安水邊多麗人
(ちょうあんのみずべ れいじんおおし)
態濃意遠淑且眞
(すがたはこまやかに いはとおく)
(しゅく かつしん)
肌理細膩骨肉勻
(きりはさいじにして こつにくはひとし)


「麗人行」の頭の部分。

長安の曲江のほとりで
水遊びをする麗人たちを見ています。

麗人たちは楊貴妃の姉妹や親族らしい。
贅(ぜい)をつくしたきらびやかな宴。
どんな遊びに興じていたのやら。

オトコ遊びはしないのでしょうか。
しますよね!絶対!

それもかの女たちは
槿花(きんか)一朝の夢になりますね。

それでもいい!
夢に死にたいもの。



夢にも死ねず
1 日ムダに過ごしてしまいました。
まだ寝ます。
孤閨に吠えもせず。



(駒田信二著/漢詩百選 人生の哀歓/)
(宗懍著/荊楚歳時記/守屋美都雄訳注/)
(田川純三著/杜甫の旅/)参照
(敬称略)
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地上の霜 李白の不用意 [うそ八百]

毎日寒いですね。
たぶん世界一
ヒートアイランド化が進んでいる大阪にも
霜が降りたニュースが流れるころ。

李白の「地上の霜」を思い浮かべました。


牀 前 看 月 光
 (しょうぜん げっこうをみる)

疑 是 地 上 霜
 (うたがうらくは)
 (これ ちじょうのしもかと)

挙 頭 望 山 月
 (こうべをあげて さんげつをのぞみ)

低 頭 思 故 郷
 (こうべをたれて こきょうをおもう)


この五言絶句のタイトルは
もちろん「静夜思」ですが。

とりたてて漢詩が好きな訳でも
お勉強熱心でもありませんが
1 度はどこかで出会ったような詩。

「ガッコーで習ったはずよ」

アラフォー(around 40)の生意気な!
いや!たぶん!ただ発情しているだけの
女史がいいますが。

「そりゃぁ!小学校の教科書には
「のっていると聞きましたが。

「え?高校でしょ」

「北京の統一小学校教科書。

「日本のこと!いいなさい」

「おら!ニッポンの
「高校には行ってましぇ~ん。
「おフランス人ですけん。

中国の教科書版は
少し漢字が違うそうなのですが
大意には問題がないようです。

伝書によって字句の異同があるのは
どうしてでしょう。

そんな「静夜思」の考察は
武部利男論文が詳しく
私は大筋それの請け売りですが。



「牀前」の「牀」は
「寝台」のことと
どの先生方も平易にかたづけています。
「ベッド」でいいのでしょうか。

「ベッドの前の月の光を霜かと思った。
「山にかかる月を見た。
「ふるさとを思った。

その詩の姿(?)をながめただけで
だれでもそんな意味だと思うのですが。

江戸の文人の服部南郭は
「不用意の詩ぢゃ」と書き残しています。
技巧をこらさず!
口から出たままということかな。

しかし!平易な漢字の連なりゆえに
詳細はよく分からず
人によって解釈にずれを生じます。

「いつなのか?

寝る前なのか。
目覚めたときなのか。
寝床にきたときなのか。
寝床といっても寝るばかりではなく
大きなベッド状のくつろぎの場所で
ずっとそこにいたのか。

「牀前の地上の霜とは?

霜はだいたい地上にありますがね。

屋外の月光か!屋内のそれか。
ほとんどの人が
屋内に射し込む月光じゃないと
詩にならないという解釈?!

屋内の月光なら
井伏鱒二がいうように
李白の寝室にガラス窓があるはずがなく
戸や窓が開かれていなければ不可能!?



私はふと思います。

この詩の季節を有識者たちは
秋とか!冬とかに分類されていますが
夏の詩ではないかと。

冬なら寒くて戸や窓が閉じられていても
夏なら開け放たれていて
月光が射し込むかも。

夏なら霜かと思っただけで
霜じゃなくて当然です。

たとえば「冬瓜(とうがん)」だって
夏の終わりの食べものなのに
「冬」の字がついています。
加熱すれば氷のようで
目に涼しいからじゃないでしょうか。
(異説は多いですけどね)

夏!月光を涼しく感じて
「霜」と詠(よ)んだのでは。



この詩は「不用意」なようにみせて
ホントは
深い心象風景ではないでしょうか。

李白は詩にやたら「月」の字を使います。
なにかを暗示しているのかも。

この詩には「月」がふたつもあります。
「不用意」でも短い詩に
大詩人がおなじ字を重ねる愚形?!

やはり「頭」もふたつありますが
その重複とは違うような。
やっぱり!なにか深い意味があるのでは。

この有名な詩を
文人墨客から学生・生徒まで
古今!多くの人が訳していますが
五言絶句で韻を踏んでいる詩を
説明的な散文に訳していいものやら。

五言絶句で視覚的に形が整っているので
せめて散文ではなく定型の詩にして
脚韻に対しては
日本のモーラ(拍)で訳してもらいたいもの。

井伏鱒二は小唄調に試みたそうですが
それも理にかなった一見識でしょう。



では恥ずかしながら習作を。
モーラを新しく(?)考案して
3 モーラ 3 音節
5 ブロック 4 行で
五言絶句のような形にして!やっつけます。

李白は「不用意」ではなく
月も霜も
酔っ払って浮かんだ心象を表現したと
勝手におもんばかって。


夢の 果ての 白い 月の 光

霜が 降りた ような 凝(こ)りた 心

拗(す)ねて 生きた まわり 道の 月日

母よ 青い 山よ 子もり 唄よ


原詩から遠く離れてしまいました。



寒いですね。
不用意に冬を迎えてしまいました。



(武部利男著/「静夜思」について/)
(一海和義著/漢詩一日一首/)
(駒田信二著/漢詩百選 人生の哀歓/)参照
(敬称略)
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