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宇治陵 37墳墓めぐり [いわなが姫の丑の刻参り]

お月さまが
ささやいた
昔むかしあの星に
りこうな猿が住んでゐた
   (三好達治「灰が降る」より)



宇治市に木幡古墳群という
古墳時代から平安時代までの墳墓が
集中している場所があります。

京阪・木幡駅や
JR木幡駅の東の丘陵一帯です。

ちなみに京阪の駅は「こわた」
JRは「こはた」と読むようですが
木幡古墳群はどう発音するのか
まだ!レクチャーされていません。

墳墓の数は 300 とも 350 とも。
広大な葬送地だったようですから
たぶん!それ以上のものが築かれて
重なったり!消えていったのでは。

しかし!目につくものは住宅ばかリ。
住宅群に墳墓らしい緑地が
点在しているといった印象ですが。

その古墳群の中に宮内庁管理の
宇治陵と呼ばれているものがあります。

藤原基経(もとつね)が
藤原「北家」一門の遺骨は
おなじところに埋葬すべきといって
この地を定めたようです。

基経は最初の関白になったひとらしい。

源融が天皇になろうとしたとき
臣下になったものが
皇族にもどろうなどとはふざけるな!と
恫喝(どうかつ)しておきながら
後になって!
臣籍降下していた源定省を東宮にして
さらに皇位(宇多天皇)につかせたり。
天皇の即位も廃位も
好き勝手にやりたい放題。

そんな人がいい出したことですから。

藤原北家出身の皇后たちの遺骨もあるから
宮内庁が陵と決めたのでしょう。

宇治陵は 37 陵!番号がふられています。



私の歩く都合で番号逆回りに進みます。

まず 37 はJR木幡駅のすぐ西にあります。
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被葬者は不明です。

その北に 36 。
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ここが藤原基経(836 ~ 891)の
墓ともいわれています。

土地のひとが昔から
「きつね塚」と呼んでいたそうな。
「きつね」は
「基経(きつね)」ではないかと。はは。

もしそうなら宮内庁が
「宇治陵」と比定するのはおかしい。
「陵」の呼称は
天皇・皇后の埋葬地以外には使えません。

ひと駅北のJR六地蔵駅の東まで
少々歩きます。

35 。
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藤原時平(871 ~ 909)の墓という説も。

茶どころ宇治!茶畑の横を進みます。
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前日の積雪が残っています。

34 は円墳のようです。
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ここは夫婦塚という伝承あり。
藤原冬嗣(775 ~ 826)夫妻の
墓地ともいいますが!はたして。

ここからどんどん南へ向かいます。
JR木幡駅の東に
宇治陵がひしめきあっています。

33 は藤原基房の娘の伊子の墓という説も。
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道元の母の伊子(1167 ~ ?)でしょうか。

32 は藤原道長(966 ~ 1028)の墓?!
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基経以上に長きに渡って
絶大な権力者の道長の墓にしては
ちょっと寂しいのでは。

宇治陵のほとんどは住宅街の中に
埋没していますが
それでもこの権力者のために
参道らしいものを造っています。
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でも!ここではなく
浄妙寺に葬られたという説がよさそう。

浄妙寺は道長が建立した巨大な寺院ですが。
木幡小学校のゴミ置き場のそばに
碑があります。
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さらにもうひとつあります。
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なぜ離してふたつあるのか知りませんが。
いずれにしろ!碑があるのみ。
みんなかすみのかなた。

薄暗い中に 31 。
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木々の向こうに
藤原基房(1144 ~ 1231)の松殿跡。
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土塁は残されていますが
見えるものは大正時代に建てられた
山荘流茶道の道場らしい。

30 。被葬者不明。
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29 。前方後円墳!?
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時代があいません。
ま!古墳の上に埋葬したのかも。

28 。だれのものか分かりません。
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27 。おなじく分かりません。
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26 。大きいですがなにがなんやら。
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25 。!?
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24 。?!
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23 。
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90 いくつの墳塚を
ひとつの陵墓と呼んでいるらしい。
もう!なんでもありですね。

22 。通り過ぎます。
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21 。!? 疲れてきました。
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20 。?!
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19 。!?
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18 。?!
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17 。6 墳墓まとめて!?
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16 。7 墳墓あるとか?!
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15 。これも前方後円墳だといいますが。
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14 。?!
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13 。大きな墳墓です。9 墳墓あるのかも。
blog13.jpg

12 。!?
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11 。?!
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10 。!?
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9 。?!
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8 。!?
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7 。?!
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6 。!?
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5 。?!
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4 。!?
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3 。?!
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2 。!?
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1 。総拝所だそうな。
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明治 10 年(1877)ときの宮内省が
后妃の 17 陵と
親王たち 3 墓を比定したそうな。
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比定したといいながら
どれがどれやら分からず
まとめて総拝所を設けたようです。

明治 27 年(1894) 17 墓追加して
37 陵になったとは!どういうこと?!
20 人に 37 陵墓!?
これがエラい役所のジョーシキかも。

近くに昭和 36 年(1961)に建てられた
藤原氏塋域の碑があります。
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塋域ですか!むずかしい単語ですね。
えいいき?!墓場のことでしょうか。

太政大臣や関白だった
藤原北家を代表するひとの名が
刻まれていますが皇族でもありません。

この石は道長建立の
浄妙寺跡から発掘されたものだそうな。

一周してみて!なんだかすっきりしません。
藤原北家でも定子等の名はなく
道長系のひとを中心に選んでいるような。

さらにいえば
道長のあまたの配偶者の中の
倫子系の子孫が多いような気もします。



黄庭堅の詩「清明」が頭をよぎります。

賢愚千載知誰是
(けんぐ せんさい
(たれがぜなるをしらんや

満眼蓬蒿共一丘
(まんがんのほうこう
(ともにいっきゅう

千年も経てば!一面の草むら!
みんなまとめてなんでもないひとつの丘。

ただ!陵も墓も紛れていることに
一抹の安堵感を感じた小市民です。



(大鏡/保坂弘司訳注/)参照
(敬称略)
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