喜連村の六地蔵 [わが街・大阪ブギウギ]
大阪メトロの喜連瓜破(きれうりわり)駅。
大変!難解な読みです。
この駅のために生まれた単語ですが。
喜連(村)と瓜破(村)の住民が
駅名にこだわったから両者の地名の合体。
いっそ「谷町線 33 駅」とか
「T 33 駅」とか簡単にしたらいいのに。
大阪メトロになる前の
大阪市営地下鉄時代に
建設された駅ですがね。
大阪市営地下鉄には
命名の原則がありませんでした。
野江内代(のえうちんだい)駅とか
四天王寺前夕陽ヶ丘とかは合成の駅名。
かと思えば
阪南町と昭和町の間にあるのに昭和町駅。
阪南町と昭和町と西田辺町と
3 町がぶつかった場所にあるのに
西田辺駅とはこれいかに。
御堂筋線や堺筋線には
「筋」をつけるのに
谷町線や四つ橋線を
谷町筋線とも四つ橋筋線ともしません。
四つ橋線にある駅は「四ツ橋駅」!?
「つ」と「ツ」?!
どうして紛らわしいことを
市民に押しつけるのか!
行政は市民を小ばかにしています。
市長や役人は公僕ではなく
「お代官」になったつもりです。
それも悪代官!?
みんなまとめて死刑!
あ!チョン!
喜連瓜破駅の上に
「伎人堤碑」がありました。
それを読むと
喜連(きれ)は
伎人(くれ)の転訛とあります。
伎人(くれ)とは呉!?
兵庫県池田市に
呉服(くれは)神社があります。
呉の国より渡来し!織物や染色を伝えた
呉服(くれはとり)を祀っていますが。
やはりここも
呉の国からきた技術者集団が
住み着いたのが嚆矢(こうし)でしょうか。
明治 23 年(1890)の喜連村。
村の周囲に水路が認められます。
環濠集落だったのですね。
水路は埋め立てられて道路になっています。
その南の西の角から反時計回りに巡ります。
お堂がふたつ。
大きいほうが南口地蔵。
村の入り口に地蔵を祀っているようです。
村の入り口でもないところにもお地蔵さま。
なんといわれているお地蔵さまやら。
横に弘法大師が腰を掛けた石があります。
だれが見たの!?
馬倉(ばくら)地蔵。
ここに馬つなぎ場があったそうな。
東口地蔵。
今の街の形が
明治の地図の村の姿とほぼおなじです。
いかにも水路の後らしい道です。
尻矢口地蔵。
喜連村には入り口が 6 か所あったとか。
東西南北と馬倉とここですか。
歴史のありそうな楯原神社。
その向こうに見えている如願寺は
聖徳太子の創建!?
北口地蔵。
北口地蔵と馬倉地蔵を結ぶ
南北の通りは中高野街道の一部らしい。
村の真ん中を通っていたのですね。
古い建てものがたくさんあります。
屋敷小路と命名されていました。
西口地蔵。
6 番目のお地蔵ですね。
水路跡とおぼしき道をたどるだけで
容易に一周できました。
あちこち道草をくっていても
1 時間もかかってはいません。
大変!難解な読みです。
この駅のために生まれた単語ですが。
喜連(村)と瓜破(村)の住民が
駅名にこだわったから両者の地名の合体。
いっそ「谷町線 33 駅」とか
「T 33 駅」とか簡単にしたらいいのに。
大阪メトロになる前の
大阪市営地下鉄時代に
建設された駅ですがね。
大阪市営地下鉄には
命名の原則がありませんでした。
野江内代(のえうちんだい)駅とか
四天王寺前夕陽ヶ丘とかは合成の駅名。
かと思えば
阪南町と昭和町の間にあるのに昭和町駅。
阪南町と昭和町と西田辺町と
3 町がぶつかった場所にあるのに
西田辺駅とはこれいかに。
御堂筋線や堺筋線には
「筋」をつけるのに
谷町線や四つ橋線を
谷町筋線とも四つ橋筋線ともしません。
四つ橋線にある駅は「四ツ橋駅」!?
「つ」と「ツ」?!
どうして紛らわしいことを
市民に押しつけるのか!
行政は市民を小ばかにしています。
市長や役人は公僕ではなく
「お代官」になったつもりです。
それも悪代官!?
みんなまとめて死刑!
あ!チョン!
喜連瓜破駅の上に
「伎人堤碑」がありました。
それを読むと
喜連(きれ)は
伎人(くれ)の転訛とあります。
伎人(くれ)とは呉!?
兵庫県池田市に
呉服(くれは)神社があります。
呉の国より渡来し!織物や染色を伝えた
呉服(くれはとり)を祀っていますが。
やはりここも
呉の国からきた技術者集団が
住み着いたのが嚆矢(こうし)でしょうか。
明治 23 年(1890)の喜連村。
村の周囲に水路が認められます。
環濠集落だったのですね。
水路は埋め立てられて道路になっています。
その南の西の角から反時計回りに巡ります。
お堂がふたつ。
大きいほうが南口地蔵。
村の入り口に地蔵を祀っているようです。
村の入り口でもないところにもお地蔵さま。
なんといわれているお地蔵さまやら。
横に弘法大師が腰を掛けた石があります。
だれが見たの!?
馬倉(ばくら)地蔵。
ここに馬つなぎ場があったそうな。
東口地蔵。
今の街の形が
明治の地図の村の姿とほぼおなじです。
いかにも水路の後らしい道です。
尻矢口地蔵。
喜連村には入り口が 6 か所あったとか。
東西南北と馬倉とここですか。
歴史のありそうな楯原神社。
その向こうに見えている如願寺は
聖徳太子の創建!?
北口地蔵。
北口地蔵と馬倉地蔵を結ぶ
南北の通りは中高野街道の一部らしい。
村の真ん中を通っていたのですね。
古い建てものがたくさんあります。
屋敷小路と命名されていました。
西口地蔵。
6 番目のお地蔵ですね。
水路跡とおぼしき道をたどるだけで
容易に一周できました。
あちこち道草をくっていても
1 時間もかかってはいません。
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