SSブログ

百年の夢 帰りなん いざ [活動写真]

「百年の夢」を見ました。
blog0011.jpg

1972 年(昭和 47 年)に
共産党政権下の
スロヴァキア共和国で撮られた
モノクロのドキュメンタリー映画です。

撮影地はファトラ山地だそうな。

が!スロヴァキアの位置さえ
くすんだ頭には定かではないのに
そんな山地なんか知る由もありません。
画面から見るかぎり
厳しい自然におびやかされた
やせた土地は悲惨に感じられます。

それが悲惨かどうか
住民が悲惨と感じているのかどうか
分かりませんが。
私がぼんやり生きているから
そう思うのなら
恥ずかしく悲しいことです。

老人ばかり出てきます。

なにもない里で
なにもなく生きているように見えますが
心の中はやせているのかどうか。

医者も薬もなくても
痛みは酒を飲めば消えるとか!
いいじゃないですか。
blog002.jpg

事故で両足が不自由になっても
ひざではいながら
ひとりでりっぱな家を建てたとか。

夫が戦死し!
結核に罹病した女性は
幼いこどもに感染させないために
火の気もなにもない納屋で暮らしたとか。
blog003.jpg

50 年間!納屋暮らし。
それで!農作業も家事もこなし
こどもたちは感染することもなく
成長したと聞けば腰が抜けました。

徴兵されて各地を引き回されたので
数か国語を会得したという羊飼いは
「百年生きてきた」そうな。
「百年生きてきた」と思えるほどの
経験をしたのかも。



灰色の脳みそはゆらいで
霞の中に詩が浮かびあがりました。


 歸去來兮
 (かえりなん いざ)
 田園將蕪胡不歸
 (でんえん まさに あれなんとす)
 (なんぞかえらざる)


陶淵明(365 ~ 427)の詩
「歸去來兮辭」の一部。
大昔から文士やら書生やらが
好んで口にした文節。

帰ろう!いざ。
(故郷の)田園が荒廃しそうなのに
どうして帰られずにいられようか。

とかなんとかの意味でしょうか。

町の生活は
精神を肉体の奴隷にしてしまうらしい。
だから!田園に帰らねば!

長い詩は再び!
「かえりなん いざ」が出てきます。

 歸去來兮
 (かえりなん いざ)
 請息交以絶遊
 (こう まじわりをやめて)
 (もって ゆうをたたん)

帰ろう!いざ。
世俗との交遊を断ちたいものだ。

なんて!いっています。

余談ですが
毛沢東は抗日宣言に
この詩を引用しているとか。
陶淵明は隠遁(いんとん)宣言ですがね。
生臭いものと静謐(せいひつ)なものとを
同列視というのも、、、どうでしょう。



思い直しました。

この映画に登場するひとたちは
他の地に行くことはできませんね。

たとえ移動できても
他の地では生きていけないかも。

陶淵明は田園に帰っても
自らの土地はあり!
召使いはいて!くるまや舟はあり!
酒はあり!琴はあり!
のん気に散策して
詩作にふけったりできるようです。

田園詩人と田園のひととは違うような。



でも!
「歸去來兮」がどうして
「かえりなん いざ」と読めるのですか。

ロクに学校に行っていないものは
まぬけなことをいって!すみません。

「來兮」は「いざ」ですか。

万葉集以来の読み方?!
菅原道真が読んだから!?

それでなじんでいるのだから
よけいなことを考える必要はないのかも。



鶏に聖書を読んでやるひと。
だれに見せるのか!
からくり人形作りに没頭するひと。

それが平和でしあわせなのかも。

日夜!格差感覚でのろい!
物欲に支配されてうらみ!
とまらない吐息に
心を病んで行く自分が
悲しくなりました。



(陶淵明全集/松枝茂夫・他訳注/)参照
(敬称略)
コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。