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消えた巨椋池 夢の跡もない [いわなが姫の丑の刻参り]

京滋バイパスで宇治川を渡ります。
眼下に見えるのは下流です。
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このあたりに詩歌にもうたわれた
巨椋池(おぐらいけ)があったはず。

東西 4km 南北 3km はあったとか。
宇治川は巨椋池に流れ込んで
また出て行ったのでしょうか。

池の形や宇治川の流れは
豊臣秀吉をはじめ!
歴代の為政者たちが改修しているので
他の湖沼と違い
時代によって様相が違っているのかも。

左岸に降ります。
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用水路のような側溝がありますが
これは田んぼの灌漑用ではないようです。

巨椋池は干拓され農地になりました。
昭和 16 年(1941)のこと。

平均水深が 1m なかったので
極端なはなし!
排水しただけで干拓できたようです。

しかし!低地ゆえ!今も水抜きが行われ
この水路は農業用ではなく
池にもどるのをふせぐ排水路のようです。

実際!池にもどったことがあるそうな。

昭和 28 年(1958)に
台風の大洪水で池が復活したとか。

今は上流に天ヶ瀬ダムがあり
豪雨がつづいても安心らしい。

万一!洪水時に天ヶ瀬ダムが決壊したら
ふたたび!池になること必定ですがね。

現在の元・巨椋池では
農地から宅地転換が進んでいるので
大変な惨事になるでしょうなぁ。

あまり!うれしそうに
いいふらさないでくださいと
昔!宇治市役所でたしなめられましたが。



信長公記の巻六!
元亀 4 年(1573)のところに
「公方様 真木島に至りて御退座の事」の
項がありました。

公方様とは
室町幕府 15 代将軍足利義昭のこと。

将軍は家臣の真木島昭光をたよって
巨椋池の中にあった槇島城に
逃げてきたのですね。

織田信長軍は強い。

さらに
「真木島にて御降参 公方様御牢人の事」と
なっています。

簡単に義昭軍は負けたのですが
信長は首をはねる訳でもありませんでした。
義昭をはだしのまま歩かせて
秀吉が河内国の若江まで送り届けたそうな。

その「槇島城跡」の碑が
槇島公園の片隅にありました。
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さらに近くの薗場(えんば)児童公園にも
「槇島城跡」の碑があります。
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地元では
「室町幕府終焉の地」と呼んでいました。

ちなみに京阪電車でもらった
「ウォーキングまっぷ」には
おなじ地図上に
槇島公園のほうは「槇島城址」!
薗場児童公園のそれは「槇島城跡」と
区別して書いてありますが
どういう違いがあるのでしょう。

へたの考え休むに似たり!
おフランス人(フランス人に非ず)!
ニッポン語!わからな~い!



JR宇治駅にたどり着きました。

観光客多し。
飲食店高し。
高くて満席状態ばかり。

とぼとぼ歩いていたら
「ステーキのどん」がありました。
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宇治まできてファミレスでもないですが
テキトーなところもないので入ります。

大昔!まじめに(?)働いている私の仕事場に
変な!ま!
個性的な女性ばかりきていましたね。

夕方になると!毎日!弁当を数個持ってきて
「すぐ食べて」というおね~さん。
弁当工場に勤めていたらしい。
消費期限が切迫していたのかな。

夜になると
行くところも
帰りたいところもないというのが口癖の
顔もバストもヒップも
こどものように小さいけど
行動は十分すれっからしの
おとなの女の子がきていました。
とりあえず!揚げ出し豆腐か
チーズのフライを食べさせていたような。

まだ 2、3 人!
おばさんともおね~さんとも呼べない
私をアゴで指図する女性もきていたような。
忘れますだ。

ああ!そうそう!昼には「おにく~!」
「お肉!」といってきていた
お目目もバストもヒップも!てのひらも
大きな娘がいましたね。

近くの「フォルクス」で
「お肉」を食べさせていたような。

訳の分からん!暗黒の時代でした。

そのフォルクスは
「ステーキのどん」の
前の店名だったような。

なにを食べますか。
なにか!昔の幻影に疲れました。

メニューに大きく書かれていた
「黒胡椒にんにくポークグリル」でいいです。

ごはんとパンとスープは食べ放題!?
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とりあえず!それを食べていたら
グリルがくる前に
おなかいっぱいになりましたが。はは。
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税込み 869 円。



(太田牛一著/
   信長公記/桑田忠親校注/)参照
(敬称略)
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