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ふーふーFOUJITA 藤田嗣治 [活動写真]

1 月 29 日は
フランス人の画家・彫刻家の
レオナール・フジタ(Léonard Foujita)の
命日だそうな。

常識にうとい私でも
日本人だったころの名は
藤田嗣治(1886 ~ 1968)だということは分かりますが。

私たちフランス人は(ウソついてすんまへん)
「ふじたつぐじ」だと思っていましたが
「ふじたつぐはる」がホントの読みだそうな。

フランスでは「つぐじ」と呼ばれたのですね!
「つぐはる」とは
フランス語では発音しにくかったらしい。

唐突に!藤田から藤本を思い出しましたが。
作家の藤本義一(1933 ~ 2012)は
「ふじもとぎいち」と仲間内から呼ばれていましたが
本名は「よしかず(or よしかす)」だったとか。

大阪では発音しにくいから、、、
かどうかは知りません。
ま!「ぎいち」の方が舌をかみますよ!私なんかは。

閑話休題。
藤田のフランスにもどります。

エコール・ド・パリでは
「ふーふー」という通称だったそうな。
「Foujita」のあたまの「ふー」から。
それはお調子ものという意味でもあるらしい。



偶然ですが
そんな「レオナール・フジタ」の命日に
映画「FOUJITA」を観ました。
blog foujita.jpg

エコール・ド・パリの夜のにぎやかさ。
倦怠と退廃的な騒ぎの中心に
「ふーふー」がいました。

エコール・ド・パリとは
だれも日本語に訳してくれないので
よく分かりませんが
世界のあちこちからやってきて
ふきだまりのように集まっていた
芸術家やその卵たちの
形のはっきりしない集団でしょうか。

藤田はエッセイに
「(当時の)パリに」
「十万人の美術家が生存している」と
書いています。

「霞を吸って」
「半分狂人のような」
「半分天才のような」
奇妙な人たちだと評していますが。

それでも!フランスの絵は
「非常に健康的な絵」だと書いていますから
東京美術学校時代の師の
黒田清輝らの考えにはなじめず
エコール・ド・パリの空気が
肌にあったのでしょうか。



「肌」といえば
「女」好きですね。
男はみんな女好きでしょうけど
日本の昔は!昔ですよ!
陰湿にこそこそと!不道徳なかぎり。

私が道徳を説くというのも奇妙ですけど。
ま!今だって不倫なんて
こそこそといっぱい往行!でしょうね。

1913 年に日本を立って
最初の寄港地・上海でもう
赤い灯のともるところに出かけています。

つぎに香港でも娼婦に会いに。
寄港するたびに「女」ですね。

フランスまで 90 日かかった時代ですよ。
大変ですね。
もっとも!それは同船の輩のことと書いていますが
果たして、、、。

フランスに行きたい一心で
中学のとき
坊さん学校(暁星)の夜学で学んだフランス語は
まったく通じなかったそうな。

それでフランス語を習得するには
肌を合わせて生きた会話を盗むのが一番。
それには娼婦とつき合うのが近道!?
なのでしょうか。
その道の大家にお聞きしたいものですが。



それから 40 年後
キキの葬儀に出たのは
エコール・ド・パリの仲間で
藤田ともうひとりだけだったそうな。

キキは藤田が世に出た
「乳白色の肌」の裸体画のモデル。

キキも流れてきて
花売りやいかがわしいことをして
糊口をしのいでいた少女。

藤田はキキのことを
「美しい顔」
「美しい身体」
「明才!天才!」
「頓智とか悪口」が群を抜いていたと
高い評価をしています。

キキもまた画家志望だったのかも知れません。

やがて
キキは多くの男性に引っ張りだこになります。

キキの晩年は分かりません。
藤田は最後の別れに行った律儀ものですね。



藤田は自由奔放なボヘミアンのように見えて
案外!可愛い純真な人だったのかも。

かれのエッセイだという
「巴里娘ルルーの恋」とか
「春の女」とかは
短編小説のような物語を感じます。
ほのぼのとした寂しさを感じます。



映画の後編は日本。
第二次世界大戦下の理不尽さを
色彩のない画面で作っていました。
反戦映画と思ってしまうほどです。

映画は悲しい色のままでおしまい。

晩年日本を追われた藤田が
フランス人になり!洗礼を受けて
平和の礼拝堂を造ります。

最期の仕事が
その壁にフレスコ画を描きあげること。
映画にはそのあたりの物語はありません。



(近藤史人編/藤田嗣治エッセイ選/)
(腕一本 巴里の横顔/を読みました)
(敬称略)
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