せともの祭!西横堀川恋し [わが街・大阪ブギウギ]
上に阪神高速道路が通っています。
下はおいしい「しじみ(蜆)」が採れたという
元・川なんですがね。
南北に走る元・西横堀川。
水なんて!暗渠(あんきょ)さえありません。
「星の流れに」じゃないけれど
こんな姿にだれがした!
これじゃ好色一代男・世之介が
「夜着(よぎ)の下から尻をつき出す」なじみの女郎に
小舟で会いに行けないじゃないの。
助右衛門橋があったあたりの東側で
北を見ます。
西横堀川沿いに材木商が
ここから北へ 50 軒
南にも 50 軒ばかりあったそうですよ。
全く面影は残っていませんね。
高速道路をくぐって
西側から北を見ます。
西横堀川の西の岸には
「せともの商」が 150 軒くらいあったそうです。
陶磁器商とかセラミック商とかいわないのです。
この街の陶磁器は全て産地はどこでも
「せともの」と呼ぶのです。
慶応 3 年(1867 年)創業の
なかなか情緒ある「つぼ善商店」をはじめ
まだ「せともの商」はなん軒かあります。
新渡辺橋があったあたりに
火防(ひぶせ)陶器神社の
参道が高速道路をくぐっています。
くぐったところに面白い表示が!
番地?表示が「渡辺」です。
ここは全国の
「わたなべ」姓の発祥の地だから
番地?が「渡辺」らしい。
坐摩神社に出ました。
大昔!私がたいそう美しかったころ!
この近くに勤務していたころ!
みんなで「ざま」さんと呼んでいましたが
正確には「いかすり」神社と読むようです。
坐摩神社は
神功皇后が新羅から帰朝したときから
あるのだそうですから相当古い!
いろいろな事情があって
大川(旧・淀川)沿いからこの地に移ったとか。
さらに火防陶器神社と繊維神社が
人にいえない(いってもいいのですが)苦労の末
この境内に引越して間借りしています。
境内で
「せともの祭」が開かれていました。
(まだ準備中!参詣客のいない朝の映像です)
「せともの」の市ですね。
毎年 7 月に
せともの商のあった筋!
すなわち西横堀川の西側の筋で
開催されていましたが。
すでに
途絶えたものと思っていましたが
この境内で復活していたのですね。
今日歩いて気づいたのですが
これだけ内外の暴風に翻弄された街なのに
北御堂と南御堂と坐摩神社と難波神社は
天保(1830 年)のころの地図と
同じ場所にありました。
下はおいしい「しじみ(蜆)」が採れたという
元・川なんですがね。
南北に走る元・西横堀川。
水なんて!暗渠(あんきょ)さえありません。
「星の流れに」じゃないけれど
こんな姿にだれがした!
これじゃ好色一代男・世之介が
「夜着(よぎ)の下から尻をつき出す」なじみの女郎に
小舟で会いに行けないじゃないの。
助右衛門橋があったあたりの東側で
北を見ます。
西横堀川沿いに材木商が
ここから北へ 50 軒
南にも 50 軒ばかりあったそうですよ。
全く面影は残っていませんね。
高速道路をくぐって
西側から北を見ます。
西横堀川の西の岸には
「せともの商」が 150 軒くらいあったそうです。
陶磁器商とかセラミック商とかいわないのです。
この街の陶磁器は全て産地はどこでも
「せともの」と呼ぶのです。
慶応 3 年(1867 年)創業の
なかなか情緒ある「つぼ善商店」をはじめ
まだ「せともの商」はなん軒かあります。
新渡辺橋があったあたりに
火防(ひぶせ)陶器神社の
参道が高速道路をくぐっています。
くぐったところに面白い表示が!
番地?表示が「渡辺」です。
ここは全国の
「わたなべ」姓の発祥の地だから
番地?が「渡辺」らしい。
坐摩神社に出ました。
大昔!私がたいそう美しかったころ!
この近くに勤務していたころ!
みんなで「ざま」さんと呼んでいましたが
正確には「いかすり」神社と読むようです。
坐摩神社は
神功皇后が新羅から帰朝したときから
あるのだそうですから相当古い!
いろいろな事情があって
大川(旧・淀川)沿いからこの地に移ったとか。
さらに火防陶器神社と繊維神社が
人にいえない(いってもいいのですが)苦労の末
この境内に引越して間借りしています。
境内で
「せともの祭」が開かれていました。
(まだ準備中!参詣客のいない朝の映像です)
「せともの」の市ですね。
毎年 7 月に
せともの商のあった筋!
すなわち西横堀川の西側の筋で
開催されていましたが。
すでに
途絶えたものと思っていましたが
この境内で復活していたのですね。
今日歩いて気づいたのですが
これだけ内外の暴風に翻弄された街なのに
北御堂と南御堂と坐摩神社と難波神社は
天保(1830 年)のころの地図と
同じ場所にありました。
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