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日下村 石上露子の母も悲しい [猫も歩けば棒立ち]

大阪と奈良を隔てる生駒山の中腹に
近鉄の孔舎衛坂(くさえざか)駅の
跡がありましたが。(拙ブログ 2016/11/22
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ここにあったのは「くさえざか」ではなく
「くさかざか」じゃないかという思いはぬぐえません。

大昔から
日下(くさか)村があったところですからね。

山を下ります。

紅葉の美しい大きな寺院がありました。
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大龍禅寺だそうな。



さらに下れば大きな家。
旧河澄家。
長い間!日下村の庄屋を務めた家らしい。
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日下村!庄屋!?
ああ!灰色の脳がなにか思い出しましたぞ!


十三の初夏のある朝
お母あさまは妹をひざに
手代一人が附添うて
日下(くさか)のおばあ様のお家へ
帰つてゆかれた(原文のまま)


石上露子(1882 ~ 1959)の
「自伝 落葉のくに」にありましたね。

ここは石上露子の母の里でしたか。
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そうでしたか。

なぜか疲労感。
かの女たちとなんの縁もありませんがね。

石上露子は
お金も美貌も教養も南河内一という
人もうらやむ恵まれた環境。

それに辺境にありながら(失礼!)
明星(新詩社)の五才媛の
ひとりと称されるほどの器量。

ちなみに他の 4 人は
与謝野晶子!山川登美子!茅野雅子!玉野花子という
そうそうたる人たち。

でも!ないものがあります。
「家庭」です。(拙ブログ 2013/11/16
「しあわせ」にも縁がなかった人です。



その母もまた同じ!
悲しい宿命にさらされていたのですね。

「家庭」も「愛」もなくても
夫をあてがわれるとこどもはできます。
不思議(?)ですね。
母も!またその娘も。
女の身は悲し。

母が追い出されたのは明治 26 年(1893)
姑が追い出したのでしたか。

嫁と姑の年齢が変わらなかった(!)のでしたか。
そりゃ!ふたりともやりにくく
結果!覇権を握りやすい姑が威張りますよね。

と!思い出した(?)のですが
記憶違いでしたら!ごめんなさい。

それから 10 年経て明治 37 年(1904)
残された子は

十とせへて やつれまた似る 子が影や
涙の母の こもる小鏡

と詠んでいます。

あのとき!母のひざにいた妹は
この歌ができたときには死んでいたのでしょうか。

妹は 17 歳で嫁いで
すぐ流産で命を落としています。

母を思う歌は多いですね。

わすれては またもよびぬる 君が名や
千とせはぐれし 身とは知れども

この歌は恋歌とされていますが
松村緑は母を恋うる歌だと断定しています。



私は美貌も教養も家庭もしあわせもいらないやい。

ま!ないものねだりの貧乏人は吠えたい!

お金があればなんにもいらないです。

今!私にはただ
吠えられるしあわせだけがあります。



河澄家の前身の建てものは
17 世紀の中ごろに建築されたもののようですが
天保 6 年(1835)改築されて
現在に残っているとか。
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あ!このかまどは近世のものですね。
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「はい!新しいです」
「明治時代のものでしょう」

それでも明治時代ですか。
ちっとも新しくないですね。



人の世の 旅路のはての 夕づく日
あやしきまでも 胸にしむかな

露子の最後の歌のようです。
辞世の歌ではなく
これ以降!作歌がないようです。

平凡にもみえる歌ですが
今夜の貧乏人の胸にしみて!
「お~い!」
なぜかうら悲しく!吠えたいよ~!



(松村緑編/石上露子集/を参照しました)
(敬称略)
タグ:石上露子
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