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いわなが姫の丑の刻参り ブログトップ
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道明寺天満宮 夏詣 いも膳でランチ [いわなが姫の丑の刻参り]

どこかで見た看板!?
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「めし処 いも膳」があります。

なつかしい。

ここは「藤井寺店」かな。
「いも膳」は近所にもありました。
安価で食べられる「めしや」でしたが。
ひとり!ちょい飲みにも最適。
貧乏な(?)おじさんたちに
人気がありましたね。

その店舗はいつの間にか撤退して
常連だったおじさんたちも
鬼籍に入ったり
社会的に死んだらしく
消息不明になって久しい。

お盆を持って
料理を取って
精算します。
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野菜のてんぷらか
サンマの塩焼きがほしかったのですが
見あたらなったので!すぐ妥協しました。

ニラ炒め!税込み 250 円。
野菜サラダ!同 160 円。
金平ごぼう!同 120 円。
みそ汁!同 90 円。
ごはん小!同 140 円。
合計 760 円。

さすがに!ひと昔!ふた昔前の
値段ではないですが
それでも安く感じます。

金平!けっこうたくさんあります。
これだけでごはんが食べられましたね。
上品(?)ですからね。はは。



数分も歩けば
近鉄・南大阪線の
土師ノ里(はじのさと)駅に出ました。

土師氏の里ですからね。
土師氏は
当麻蹶速(たいまのけはや)の
腰をふたつ折りにして殺した
野見宿禰(のみのすくね)を
祖先とする氏族でしたね。

駅前の緑地は鍋塚古墳。
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その向こうに見える丘は
仲姫皇后陵古墳かな!世界文化遺産の。

振り向けば!允恭天皇陵古墳。
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これも世界文化遺産。
ごみごみしていますねぇ。
もっと!世界のひとに見てもらうために
周辺をきれいにしたらどうですか。

その前に被葬者を
科学的に調べたらどうでしょう。
宮内庁の治定は
ほとんどが間違っていますよね。

真実が分かったからって
崇拝の念に
変わりはないと思うのですがね。



今日(2023/06/25)は天満宮の縁日です。
北野天満宮なんかは
「夏越(なごし)」の行事をしているはず。
道明寺天満宮もなにかしているのかも。

道明寺天満宮を経由して
つぎの駅まで歩いてみます。

土師氏の氏寺でしょうか!
道明寺に着きました。
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砂の境内に
いつ見ても心が洗われるようです。

道明寺天満宮に回ります。

境内は閑散としています。
朝!生誕祭を催行したようですが。
夏越の
茅の輪(ちのわ)は作られています。
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今日は骨董市だそうな。
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ブースは 10 もありません。
静かです。
もうひとが帰った後なのか!
これから押し寄せてくるのか知りませんが。

梅園を見ましょうか。
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たくさんの梅の木があれども
実の熟れた匂いがありません。

台の上から見ても
梅の実はもう
収穫されてしまったかのようです。
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本殿の周囲の実は
少々残ってはいましたが。
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境内の元宮・土師社には
なかなか姿のいい!
正統(?)な角の狛犬があるじゃないですか。
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土師氏も野見宿禰も活躍したのは
菅原道真よりすごく前の古墳時代。
天満宮の造営の前に
お祀りしていたところでしょうか。

すると!
そんな時代に狛犬はなかったはず。
感心して損した気分!はは。

道明寺天満宮の神門の横に
埴輪(はにわ)窯の復元があります。
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土師氏が埴輪を発明したそうな。
伝承でしょうけど。

土器!土師器!陶器!磁器!等々
焼きものに種類がありますが。

土師氏の埴輪は土師器なんですか。

もっとも!土器も土師器も須恵器も
区別がついていない無学な私が
生意気いっている立場じゃないですが。
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御幸森天神宮 ハングルの和歌 [いわなが姫の丑の刻参り]

各社の駅が集中している鶴橋駅から
東南の御幸森天神宮に寄ります。
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歌碑があります。
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万葉仮名と
藤原定家の書(たぶん?)と
ハングルが並んでいます。

「難波津(なにはづ)に
「咲くやこの花 冬ごもり
「今を春べと 咲くやこの花

小倉百人一首の
序歌に採用されている歌のような。

王仁(わに)博士の作なんですか?!
なにものですか!
推察すれば百済か!
その向こうの大陸のひとのようですが。

それにこの歌!日本語が先ですか
ハングルが先ですか。

古今和歌集の仮名序に
和歌も漢詩も
6 技法に分類されるとあります。

そのひとつ!
最初の「風」の技法の例として
この歌が書かれていますが。

古今和歌集が平安時代に編集されたのなら
ハングルが発明(?)されるのは
そのなん百年もあとかも知れませんが。



これは仁徳天皇を
もろ手を挙げて
ほめそやす歌ではないでしょうか。
「咲くやこの花」を重ねたりして。

でも「冬ごもり」とは不気味です。
応神天皇の死後
3 年間の天皇空白を指すのでは。

宇治市を歩く機会が多いのですが
そこでいつも思います。

その 3 年間は応神帝の皇太子だった
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が
皇位についていたのでは。

またはつこうとしているのに
じゃまをしたものがいたのでは。

菟道稚郎子は突然!
仁徳帝に皇位をゆずって自殺したと
日本書紀は美談に仕立てていますが
怪しい!

仁徳帝が
たたき殺したように思われてなりません。

仁徳天皇は諡号(おくりな)もそうですが
民のかまどの心配をしたとか
聖帝(ひじりのみかど)と称されたとか
あまりにも!きれいごとが多過ぎます。

だいたい!成功者は
逆のことをいいますよね。

泥棒や法令違反を繰り返しして
大金持ちになったら
こつこつ真面目に生きていたら
いつの間にかビルが建ったとか。

妻やこどもを裸同然で追い出して
愛人とちゃんちきおけさを踊っていても
奥さんは大切にしていたのに
勝手に喜んで出て行ったとか。

聞きもしないのに
ことさらきれいごとをいいたがるひとは
逆のこと!特に
悪いことをしている場合が多いような。

それに仁徳天皇は実在のひとでしょうか。
父親の応神天皇の母親は神功皇后です。
神功皇后は 70 年間君臨しています。

先の終戦までは
万世一系の皇統だといいながら
応神帝の前に
70 年も天皇空白があるじゃないですか。

実在なら!応神天皇で
皇統が入れ替わっているような。
さらに兄弟殺し(?)の仁徳帝も
応神帝のこどもでしょうか!?
怪しいかぎり。

もしかして
神功皇后の時代から
応神天皇や仁徳天皇の時代まで
血縁関係のないものたちばかりが
血を血で洗う皇位争奪戦をしたのでは。



御幸森天神宮の横の
大阪を代表するコリアタウンの
御幸通り商店街に行くと
アラサー(around 30)らしい女性たちが
群がって買っています。
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「韓国もちスイーツ」の岩村食品!?

よく分かりませんが
4 種類のセットをもらいます。
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あずき餅シリトッ!甘納豆シリトッ!
ソンピョン 2 種類だそうな。
税込み 400 円。

餅ですね!たしかに。
半分!翌日まで残しておいたら
固くなっていますから。

電子レンジにかけると大丈夫でした。



余談ですが
錢稲孫は万葉集の長歌や短歌を
漢詩に訳していますが(拙ブログ 2023/03/25
とても訳詩とは思えぬ
独立した(!)格調ある詩になっています。
なっているらしいです。
学問のないものがエラそうにいえませんが。


ハングルの歌!
まったく読めませんが
どの程度完成されたものでしょうか。



(古今和歌集/奥村恆哉校注/)参照
(敬称略)
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尼崎 大物川ありき [いわなが姫の丑の刻参り]

阪神・尼崎駅を出ると尼崎城が見えます。
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まだできたて!ほやほや。
建てられたのは 2019 年でしたね!たしか。

城の正面の郵便ポストに!なぜか
鯱瓦(しゃちがわら)がのっています。
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そこから南の小学校の横に
「尼崎城址」ときざまれた石柱があります。
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このあたりにホンモノの古い尼崎城!
別名・大物(だいもつ)城が
あったのでしょうか。

荒木村重が織田信長に攻められて
伊丹の有岡城から
家族全員を犠牲にして
自分だけ逃げてきた城かな。

ちなみに村重は大物城が危なくなると
家来たちを見殺しにして
自分だけ!今の神戸市にある
花隈(はなくま)城に脱出しています。

花隈城が落ちると
また!ひとりだけ!今の広島県の
尾道あたりに逃げていたとか。

秀吉の時代になると!いつの間にか
堺で茶の湯の宗匠をしていたそうな。

千利休らと交流があったので
秀吉とすれ違ったこともあったらしい。
でも!昔のカタキを見た秀吉は
「ははは」と笑っただけで
もう!全然相手にしなかったとか。

私も笑えます。
無学なものは!なんだかふしぎに。

今の新しい城は
家電量販で
しこたま儲けた(知らんけど!)ひとが
建設したらしい。



この城跡の東に行けば!そこから北へ
くねくねした緑地帯があります。
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大物川を埋め立てて造ったようです。
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大日本紡績発祥の地という
古い建てものがありました。
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大日本紡績の最初は
尼崎紡績という組織だったようです。

この周囲一帯が大工場地帯になって
大いに栄えたとか。

じきに大物川が
どす黒くよどむようになったとか。

よどんだ一番の原因は
工場が地下水をくみあげつづけたため
地盤沈下を起こし!
川の流れが止まったといいます。

さらに市民がその川を
ゴミ捨て場にしてしまったとか。

大日本紡績はニチボーと!
さらにユニチカと名称を変え!
そして今!
工場もなにも消えてしまいました。

川を浚渫(しゅんせつ)して
流れをとりもどす案もあったそうですが
農業用水を必要とすることも
船便もなくなり
埋め立てて公園化することにしたらしい。

だから!
橋の跡を示す石碑もいくつかあります。

蜆(しじみ)橋跡というものも。
きっと!大昔は汽水域で
立派なシジミが棲息していたのでしょう。



舞台らしいもの?!
能舞台!?
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謡曲に「船弁慶」というものがあります。
ここでときどき演じられるのでしょうか。

源義経と静御前の別れの場。
義経と弁慶が頼朝の追討を逃れて
船出をした港がここだというのですね。

この近くに義経の隠れ家跡とか
静なごりの橋跡とかあるそうです。

尼崎市は
歴史として扱いたいのでしょうか。

源義経の一番詳細な伝記という
義経記でさえ
ほぼ 100%!史実ではないそうですが。

交通機関も宿泊施設もない時代に
妻も家族も捨てて
愛妾とあちこち逃げ回りますかね。
現実的ではないでしょう。



春には桜のお花見ができそうです。
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「残念さんの墓」だとか。
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ここに祈れば願いがかなうそうです。
ただし!願いは
ひとつだけにしなければなりません。

なぜか!蒸気機関車があります。
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大物公園と表示してあります。
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先ほどまでは
大物川緑地公園だったような。

国道 2 号の下は埋め立てていません。
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稲川橋をくぐると稲川公園ですか。
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ここも船溜まりだったような景色です。



国道に出て西に歩けば
尼崎駅にショートカットしてもどれます。

あ!?
各種定食が
税込み 600 円からある店舗があります。
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「食事と珈琲の店 ナダ」ですか。

なんと!日替わり定食なら
580 円ですと!?

それ!それだ!内容も確認しないで注文。
大丈夫!
由緒正しい貧乏人はなんでも食べますぞ。
嫌いなものでも食べてしまう
鋼鉄の胃袋を所持しています。

この日は焼きそばとコロッケでした。
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小皿は蓮根の金平です。
ふりかけはいくつか
かけたい放題でした。
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宇治陵 37墳墓めぐり [いわなが姫の丑の刻参り]

お月さまが
ささやいた
昔むかしあの星に
りこうな猿が住んでゐた
   (三好達治「灰が降る」より)



宇治市に木幡古墳群という
古墳時代から平安時代までの墳墓が
集中している場所があります。

京阪・木幡駅や
JR木幡駅の東の丘陵一帯です。

ちなみに京阪の駅は「こわた」
JRは「こはた」と読むようですが
木幡古墳群はどう発音するのか
まだ!レクチャーされていません。

墳墓の数は 300 とも 350 とも。
広大な葬送地だったようですから
たぶん!それ以上のものが築かれて
重なったり!消えていったのでは。

しかし!目につくものは住宅ばかリ。
住宅群に墳墓らしい緑地が
点在しているといった印象ですが。

その古墳群の中に宮内庁管理の
宇治陵と呼ばれているものがあります。

藤原基経(もとつね)が
藤原「北家」一門の遺骨は
おなじところに埋葬すべきといって
この地を定めたようです。

基経は最初の関白になったひとらしい。

源融が天皇になろうとしたとき
臣下になったものが
皇族にもどろうなどとはふざけるな!と
恫喝(どうかつ)しておきながら
後になって!
臣籍降下していた源定省を東宮にして
さらに皇位(宇多天皇)につかせたり。
天皇の即位も廃位も
好き勝手にやりたい放題。

そんな人がいい出したことですから。

藤原北家出身の皇后たちの遺骨もあるから
宮内庁が陵と決めたのでしょう。

宇治陵は 37 陵!番号がふられています。



私の歩く都合で番号逆回りに進みます。

まず 37 はJR木幡駅のすぐ西にあります。
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被葬者は不明です。

その北に 36 。
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ここが藤原基経(836 ~ 891)の
墓ともいわれています。

土地のひとが昔から
「きつね塚」と呼んでいたそうな。
「きつね」は
「基経(きつね)」ではないかと。はは。

もしそうなら宮内庁が
「宇治陵」と比定するのはおかしい。
「陵」の呼称は
天皇・皇后の埋葬地以外には使えません。

ひと駅北のJR六地蔵駅の東まで
少々歩きます。

35 。
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藤原時平(871 ~ 909)の墓という説も。

茶どころ宇治!茶畑の横を進みます。
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前日の積雪が残っています。

34 は円墳のようです。
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ここは夫婦塚という伝承あり。
藤原冬嗣(775 ~ 826)夫妻の
墓地ともいいますが!はたして。

ここからどんどん南へ向かいます。
JR木幡駅の東に
宇治陵がひしめきあっています。

33 は藤原基房の娘の伊子の墓という説も。
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道元の母の伊子(1167 ~ ?)でしょうか。

32 は藤原道長(966 ~ 1028)の墓?!
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基経以上に長きに渡って
絶大な権力者の道長の墓にしては
ちょっと寂しいのでは。

宇治陵のほとんどは住宅街の中に
埋没していますが
それでもこの権力者のために
参道らしいものを造っています。
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でも!ここではなく
浄妙寺に葬られたという説がよさそう。

浄妙寺は道長が建立した巨大な寺院ですが。
木幡小学校のゴミ置き場のそばに
碑があります。
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さらにもうひとつあります。
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なぜ離してふたつあるのか知りませんが。
いずれにしろ!碑があるのみ。
みんなかすみのかなた。

薄暗い中に 31 。
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木々の向こうに
藤原基房(1144 ~ 1231)の松殿跡。
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土塁は残されていますが
見えるものは大正時代に建てられた
山荘流茶道の道場らしい。

30 。被葬者不明。
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29 。前方後円墳!?
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時代があいません。
ま!古墳の上に埋葬したのかも。

28 。だれのものか分かりません。
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27 。おなじく分かりません。
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26 。大きいですがなにがなんやら。
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25 。!?
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24 。?!
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23 。
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90 いくつの墳塚を
ひとつの陵墓と呼んでいるらしい。
もう!なんでもありですね。

22 。通り過ぎます。
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21 。!? 疲れてきました。
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20 。?!
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19 。!?
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18 。?!
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17 。6 墳墓まとめて!?
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16 。7 墳墓あるとか?!
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15 。これも前方後円墳だといいますが。
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14 。?!
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13 。大きな墳墓です。9 墳墓あるのかも。
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12 。!?
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11 。?!
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10 。!?
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9 。?!
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8 。!?
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7 。?!
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6 。!?
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5 。?!
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4 。!?
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3 。?!
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2 。!?
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1 。総拝所だそうな。
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明治 10 年(1877)ときの宮内省が
后妃の 17 陵と
親王たち 3 墓を比定したそうな。
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比定したといいながら
どれがどれやら分からず
まとめて総拝所を設けたようです。

明治 27 年(1894) 17 墓追加して
37 陵になったとは!どういうこと?!
20 人に 37 陵墓!?
これがエラい役所のジョーシキかも。

近くに昭和 36 年(1961)に建てられた
藤原氏塋域の碑があります。
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塋域ですか!むずかしい単語ですね。
えいいき?!墓場のことでしょうか。

太政大臣や関白だった
藤原北家を代表するひとの名が
刻まれていますが皇族でもありません。

この石は道長建立の
浄妙寺跡から発掘されたものだそうな。

一周してみて!なんだかすっきりしません。
藤原北家でも定子等の名はなく
道長系のひとを中心に選んでいるような。

さらにいえば
道長のあまたの配偶者の中の
倫子系の子孫が多いような気もします。



黄庭堅の詩「清明」が頭をよぎります。

賢愚千載知誰是
(けんぐ せんさい
(たれがぜなるをしらんや

満眼蓬蒿共一丘
(まんがんのほうこう
(ともにいっきゅう

千年も経てば!一面の草むら!
みんなまとめてなんでもないひとつの丘。

ただ!陵も墓も紛れていることに
一抹の安堵感を感じた小市民です。



(大鏡/保坂弘司訳注/)参照
(敬称略)
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富雄丸山古墳のふしぎ [いわなが姫の丑の刻参り]

近鉄・奈良線の
富雄(とみお)駅で降ります。

10 年以上きていないと思いますが
気のせいかあか抜けた印象の駅前です。

でも!朝食を摂るところがありません。

駅の周囲をぐるぐる回れば
喫茶店が 1 軒営業していました。
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屋号は優香里(ゆかり)とあります。

ほぼおなじ漢字の名のひとと
この駅から歩いて霊山寺の
バラ園に行ったことがありますね。

かの女とだけではなく
なん人かとも霊山寺まで歩いています。
それからどこまでハイキングしたのやら。
わが灰色の脳は
忘れることが幸せとばかりの
人生を送っています。

「モーニング」をいただきます。
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大阪のネオン街の中の
それと変わりません。

税込み 500 円。



富雄丸山古墳では
ぬかるんだ細い山道に長蛇の列。
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お勉強好きなひとが多いのです。

とんでもないものが出たのだそうな。
長さ 34cm の盾形の銅鏡。
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長さが 237cm もある鉄剣。
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円墳ですか。
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古墳は 3 段だったようですが
1 段目の!下の部分が並んでいる埴輪。
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「なるほど」と訳も分からないのに
うなずいて!さらにのぼります。

葺石(ふきいし)が残っていました。
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百舌鳥(もず)や
古市の古墳群を見てきたものには
小さな古墳と感じたりしますが
頂上に立てば
なかなか見晴らしがよろしい。
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それもそのはず!
直径 109m は
円墳としては国内最大級のもの。

1 段目あたりの造り出しに
見学者が集中しています。

そこで粘土槨に覆われた
木棺が発見されたとか。
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変なの!
どうして!そんな下に埋葬したの!?

そこに銅鏡と鉄剣があったといいます。

分からないことと!
すごいことが重なっていて
教養のない野次馬は
ここでも「なるほど」というだけ。

横の 2 号墳の石室も見ますか。
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ここは古墳の
ちゃんと上部にありませんか。



懐中不如意なのに!ここにバスできました。
なんという軟弱な精神!
か~ちゃんが草葉の陰から怒りますね。
あ!?母はまだ生きていました。

せめて帰路だけでも歩きますか。
エラいぞ!
自分に勇気づけてどうします?!

霊山寺の門前を通り過ぎます。
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冬のバラ園は拝観料を払ってまで
鑑賞に値しないでしょう。

道に迷うことはありません。
富雄川をさかのぼればいいだけ。
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往路のバスには 13 分乗車。
あんなゆっくり運転では
5km 少々のはず。歩いて楽勝だぁ!たぶん。

貸農園!なにも植えられていません。
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富雄川の左岸は車道。
右岸は遊歩道と思って歩いていましたが。
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河川管理用通路でしたか。

近鉄の高架線が見えます!富雄駅です。
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