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美少年平敦盛と間違えられた?! [いわなが姫の丑の刻参り]

不思議な記憶があります。

小春日和に
本堂の廊下のような濡れ縁に座っていました。
聞けば
法然(ほうねん)の生誕地に建てられた寺院だといいます。

周囲はやたらまぶしく輝いています。
そこで
朴念仁(ぼくねんじん)の私が人知れず
恋かなんかを意識していたような。
しかし!
なにひとつその前後の記憶がないのです。

まぶしい記憶だけが強烈にあります。

長い間!気になっていたので
大枚はたいて新幹線に乗って出かけ
探したことがあります。
そこは誕生寺と称されていました。
晩秋の境内は私には寒々として
ロマンもなにも
新しい発見はありませんでした。

ちなみに私の家系に法然も浄土宗も念仏も皆無です。
しかも!私には神仏も帰依もないバチあたりです。
夢を記憶していたのでしょうか。

誕生寺を尋ねてから幾星霜
その道順をも忘れ
それさえ夢のように思えたりします。

それは「光明寺」じゃないの!という人がいます。
「光明寺の仏罰が夢に出たのよ!きっと!」

ひぇ~っ!?

法然といえば光明寺なんですか!?
光明寺には1度も行った記憶がないんですが。

長岡京市にある光明寺は大きな寺院でした。
西山浄土宗総本山と書かれています。

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な!なんと!?
本堂にあたる御影堂(この寺ではみえどうと発音)の横に
法然の石棺があるではありませんか!

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放置はやめて埋葬してあげてくださいよ。
戸惑う私の前を
参拝者は石棺を全く気にせず通り過ぎています。

え?!棺の中は空っぽ!ですか?!

1212年80歳を一期として法然は亡くなって
京の東山の大谷に埋葬されたそうです。

生前は(この宗派のいう)法難が数限りなくありましたが
死後15年経てもなお!おそいかかりました。

念仏の教えが広がるにつれ
比叡山のムカつきは最高潮!
どんどん客を!あ!失礼!信者を取られますがな!

法然の墓を暴いて
遺骨を鴨川にでも投げ捨ててやれという
企てをしたようです。
ヤクザの内部抗争!
島荒らしの報復みたい!
なんていうのは!いけないたとえでしょうか。

それを知った法然の弟子たちは
石棺を掘り出し嵐山の二尊院に移しました。

比叡山の鉄砲玉の探索が厳しく
さらに太秦(うずまさ)の西光院に運びました。

そのとき!
石棺から光が放たれたそうです。
光は長く長くはるかかなた
15km離れている念仏三昧院まで伸びていました。

それは法然が
終(つい)の住処(すみか)を示したに違いありませぬ。
弟子たちは
念仏三昧院まで石棺を運びました。

この石棺!重そうです。

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どのように運んだのでしょうか。
今のような運搬具も乏しく
道路も整備されてない時代にですよ。
比叡山の追っ手におびえながらですよ。

法然はこの地で荼毘(だび)にふされました。
火葬跡がありました。
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念仏三昧院は
熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)の開基でした。

平家物語では
美少年・平敦盛(たいらのあつもり)の
首(しるし)を取った荒くれ男です。

その後!思うところがあって法然に弟子入りし
武士を捨てて得度し
「蓮生(れんせい)」の名をもらったのだそうです。

念仏三昧院は法然の荼毘の後
光明寺と名を変えたようです。
あの石棺から出た光明に由来したのでしょう。

蓮生はこの寺より先に
出家して一番最初に
なんと!?
あの私が訪れた「誕生寺」を建立したそうですよ!

私の夢のような記憶が
つながったような、、、なんて勝手にこじつけて納得。

法然が
蓮生が
なにかいおうとしているのでしょうか。
まだ!そちらに呼ばないでくださいね。

私は平敦盛ではありませぬぞ!
美少年と間違えないでくださりませ!
間違えるはずはないとは思うのですがね。あは。

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長い参道をゆっくりたどる秋の終わりです。

(敬称略)
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