小春日和 花街・島原 歌悲し [平安京有情]
京都の島原に行きました。
太夫(たゆう)の名称は
島原から始まったそうですよ。
京都市の立てた案内板によると
傾城(けいせい)の最高位を呼ぶのだそうです。
傾城とは
落語では
城持ちの殿さまだって
色香で骨抜きにして貢がせて
ついには城の財政を傾かせるから
遊女のことをそう呼ぶと解説されます。
100%間違いではないのでしょうけど
島原の傾城は
元々芸があった身分の高い人が
城(家)が傾いたため
その芸で生計を立てたことからきたそうです。
舞妓や芸妓が
大衆文化からの発祥というのなら
島原の太夫は
公家文化の流れかもしれません。
それゆえ島原は
文化サロンみたいで
多くの文人墨客が集まって風流を楽しんだようですね。
○ ○ ○
大門をくぐります。
1867年に建て替えられた高麗門だそうですよ。
太田垣蓮月の歌碑があります。
嶋原のでぐちのやなぎをみて
なつかしき やなぎのまゆの 春風に
なびくほかげや さとの夕ぐれ
リズムの悪い詩歌ですね。
あ!?
「嶋原のでぐちのやなぎをみて」は前書きですか。
すみません!
○ ○ ○
古い建物がありました。
輪違屋(わちがいや)とあります。
置屋で!揚屋もしているとか。
今の島原は
昔日の遊里の面影は薄いのですが
ここは今も営業中なので
玄関に「観覧謝絶」の張り紙がありました。
ちなみに近くに残る古い建造物の揚屋だった角屋は
「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されています。
新撰組の芹澤鴨が泥酔して大暴れして
7日間!営業をとめたという逸話を残している店です。
○ ○ ○
歌舞練場跡記念碑がありました。
歌舞練場をしのぶものはなにもありませんが。
この街にあったという青柳踊りは
どこかで伝承されているんでしょうか。
記念碑に吉井勇の歌が。
宝暦の むかしの夢は 見は見つれ
夜半の投節 聴くよしもなし
○ ○ ○
卸売市場の壁を伝って歩けば
大銀杏が変に刈り込まれて立っていました。
句碑には服部嵐雪の句が刻まれています。
嶋原の 外も染るや 藍畠
○ ○ ○
島原西門跡に出ました。
門は昭和52年まであったそうですが。
碑に富士谷成章の歌。
花の色は いひこそ知らね 咲きみちて
山寺遠く 匂ふ春風
○ ○ ○
島原西門跡にくっついて
島原住吉神社があります。
広大な境内を有する神社だったそうですが
明治の廃仏毀釈により廃社になったそうです。
ん?!
廃仏毀釈は仏さま即ち寺を粗末にしたのでは?!
ここは神社ですよ!
神社もつぶされたのですか!?
それから150年!信仰はつづいていて!
平成11年に可愛いながらも境内が整備され
平成13年に元の名称に甦った神社です。
碑には隣の西門と同じく富士谷成章の歌。
住吉の 松の常盤に 春はなほ
色香あらそふ 神垣の梅
○ ○ ○
狭い島原住吉神社の境内に
さらに可愛い幸(さいわい)天満宮がありました。
やはり富士谷成章の歌。
曇りなく 神の光も やはらぎて
ちりづか山に 交る瑞垣
○ ○ ○
東鴻臚(こうろ)館跡に行き当たりました。
鴻臚館は平安時代に
渤海国(ぼっかいこく)の使節を歓待するための
施設だったそうです。
与謝蕪村の句がありました。
白梅や 墨芳しき 鴻臚館
こじんまりした街に歌碑がたくさんありました。
(敬称略)
太夫(たゆう)の名称は
島原から始まったそうですよ。
京都市の立てた案内板によると
傾城(けいせい)の最高位を呼ぶのだそうです。
傾城とは
落語では
城持ちの殿さまだって
色香で骨抜きにして貢がせて
ついには城の財政を傾かせるから
遊女のことをそう呼ぶと解説されます。
100%間違いではないのでしょうけど
島原の傾城は
元々芸があった身分の高い人が
城(家)が傾いたため
その芸で生計を立てたことからきたそうです。
舞妓や芸妓が
大衆文化からの発祥というのなら
島原の太夫は
公家文化の流れかもしれません。
それゆえ島原は
文化サロンみたいで
多くの文人墨客が集まって風流を楽しんだようですね。
○ ○ ○
大門をくぐります。
1867年に建て替えられた高麗門だそうですよ。
太田垣蓮月の歌碑があります。
嶋原のでぐちのやなぎをみて
なつかしき やなぎのまゆの 春風に
なびくほかげや さとの夕ぐれ
リズムの悪い詩歌ですね。
あ!?
「嶋原のでぐちのやなぎをみて」は前書きですか。
すみません!
○ ○ ○
古い建物がありました。
輪違屋(わちがいや)とあります。
置屋で!揚屋もしているとか。
今の島原は
昔日の遊里の面影は薄いのですが
ここは今も営業中なので
玄関に「観覧謝絶」の張り紙がありました。
ちなみに近くに残る古い建造物の揚屋だった角屋は
「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されています。
新撰組の芹澤鴨が泥酔して大暴れして
7日間!営業をとめたという逸話を残している店です。
○ ○ ○
歌舞練場跡記念碑がありました。
歌舞練場をしのぶものはなにもありませんが。
この街にあったという青柳踊りは
どこかで伝承されているんでしょうか。
記念碑に吉井勇の歌が。
宝暦の むかしの夢は 見は見つれ
夜半の投節 聴くよしもなし
○ ○ ○
卸売市場の壁を伝って歩けば
大銀杏が変に刈り込まれて立っていました。
句碑には服部嵐雪の句が刻まれています。
嶋原の 外も染るや 藍畠
○ ○ ○
島原西門跡に出ました。
門は昭和52年まであったそうですが。
碑に富士谷成章の歌。
花の色は いひこそ知らね 咲きみちて
山寺遠く 匂ふ春風
○ ○ ○
島原西門跡にくっついて
島原住吉神社があります。
広大な境内を有する神社だったそうですが
明治の廃仏毀釈により廃社になったそうです。
ん?!
廃仏毀釈は仏さま即ち寺を粗末にしたのでは?!
ここは神社ですよ!
神社もつぶされたのですか!?
それから150年!信仰はつづいていて!
平成11年に可愛いながらも境内が整備され
平成13年に元の名称に甦った神社です。
碑には隣の西門と同じく富士谷成章の歌。
住吉の 松の常盤に 春はなほ
色香あらそふ 神垣の梅
○ ○ ○
狭い島原住吉神社の境内に
さらに可愛い幸(さいわい)天満宮がありました。
やはり富士谷成章の歌。
曇りなく 神の光も やはらぎて
ちりづか山に 交る瑞垣
○ ○ ○
東鴻臚(こうろ)館跡に行き当たりました。
鴻臚館は平安時代に
渤海国(ぼっかいこく)の使節を歓待するための
施設だったそうです。
与謝蕪村の句がありました。
白梅や 墨芳しき 鴻臚館
こじんまりした街に歌碑がたくさんありました。
(敬称略)