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相合橋 食満南北 道頓堀五座 [パパラッチ!ママえっち?]

道頓堀川に架かる橋のひとつに
相合橋があります。
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1680 年ごろ架橋された中橋が
この橋の嚆矢(こうし)かも。

私は最初に「あいおいばし」と教えられたので
口が変えることはできませんが
「あいあいばし」「あいおうばし」
みなさん!色いろいっていますね。
大阪市は「あいあうばし」とルビを打っています。

別称!縁切り橋!
北の遊里と南の芝居街を結ぶ橋。

北のたもとに
食満(けま)南北の句碑があります。
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  盛り場を むかしに戻す はしひとつ

食満南北(1880 ~ 1957)は堺の人。
芝居の作者部屋の人!
今どきのことばでは劇作家・演出家でしょうか。
本名は食満貞二。
食満(けま)は本名?!珍しい姓ですね。



相合橋を南に渡れば芝居小屋が並んでいたのですね。

川沿いに西から
竹本座(1685 ~)→大西の芝居→筑後の芝居→戎座→浪花座
中の芝居(1661 ~)→中座
角の芝居(1669 ~)→角座
角丸の芝居(1710 ~)→朝日座
竹田の芝居(1662 ~)→弁天座の 5 座を
道頓堀五座(or浪花五座or五つ櫓)と
呼ばれていたらしい。(→は名称変更)

朝日座と弁天座の間に
豊竹座(1703 ~)→若太夫の芝居→阪恵座もあったらしい。
五座のひとつは朝日座ではなく
阪恵座だとも聞きましたが!よく分かりません。

すべての小屋は今!
千日前の焼き場の煙のように消えています。
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ちなみに浪花座より西
御堂筋の方に今も残っている松竹座は近代の小屋。
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といっても!大正 12 年(1923)の竣工ですが。
ミラノのスカラ座と
パリの凱旋門を合体させたデザインらしい。
なんともはや、、、!



芝居小屋の雰囲気は
江戸時代のことは知る由もありませんが
明治の終わりから大正・昭和にかけてのことは
食満南北の随想「作者部屋から」をめくれば
垣間見えます。

役者とは
泣く子と地頭の!地頭以上にどうにもならぬもの。
常の人の常識は役者の非常識とか書いてあります。

大変ですなぁ!裏方も。

役者がせりふを覚えない(!)で舞台に出るのは
フツーのようで
作者(演出家)なんかが
黒衣(くろこ)姿で舞台に出て
なん日か覚えるまで
せりふをつけて(教えて)いたとか。

それは演劇のある意味では宿命。
洋の東西を問わず
いわゆるプロンプターを置いているのでしょうけど。

黒衣は役者の介添えには出てきますが
南北の時代には
せりふを教えるために堂々と舞台に出ていたのですね。

それでまき起こった逸話は
枚挙にいとまがないようです。



喜田川守貞(1810 ~ ?)著/守貞謾稿に
役者の給料の解説がありましたね。

上手座頭(ざがしら)は
いわゆる!千両役者らしい。
1 年の給金が 1000 両!

その下が 8、900 両!
次は 2、300 両とガクンと減って
さらに半分以下!
以下その半分以下と少なくなっていくようです。

ただし! 興行日の数で割られるので
千両役者といえども
1 年の所得は 500 両がいいところ。
最下は日雇いで 2、300 銭。

弁当代等の別手当ももらう契約もあったようですが
高給取りは見栄もあって
衣装なんかが自前なので出費も多い。

もっとも!下っ端役者は
貸衣装屋から損料を払って借りなければなりませんが。

どうも!
上も下もなにもかも
フツーの常識ではつとまらない世界のようですね。



(敬称略)
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