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心斎橋筋 順慶町通り [わが街・大阪ブギウギ]

戎(えびす)橋から道頓堀川を見ます。
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戎橋の「戎」とは今宮戎神社につづくからでしょうか。
真南にほぼ一直線!
のどかな道があったのでしょう。

今は道と街が複雑過ぎて
神社まで初めて歩いてたどれば
途中で紛れたり!
誘惑に横道にそれたりするでしょうけど。

そんなことにはだれも興味はないですよね。
早朝から
自分撮りのポールを掲げている人がいっぱい。
あのポール!うっとうしいかぎり。
ま!グリコの看板といっしょに撮りたいのですね。

ほとんどが外国の観光客のようです。

北に心斎橋筋商店街のアーケードが伸びています。



すぐ!からくり人形が回っている喫茶店が。
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「心斎橋 ミツヤ」ですか。
70 年の歴史は立派です。
そして立派な値段ですので!貧乏人は入れませんが。

三津寺(大阪人の発音はみってらと聞こえますが)の
外壁に埋め込まれたさい銭箱(?)があります。
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のぞけば!観音菩薩の尻が!いや失礼!
後ろ姿が見えます。



長堀川を渡る心斎橋。
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千日前なんかの「斎場」に行く橋だから
名前に「斎」がついていると
場末の安居酒屋で土着のおじいさんたちが
まことしやかに他国の人に教えていましたが。

違います。

江戸時代の初め
岡田心斎が架橋したから「心斎橋」です。
岡田心斎は長堀川を掘削した有力町人のひとり。

もっとも今は!長堀川は埋め立てられて久しい。
高欄やガス灯は明治の終わりごろのものの復元かな。



さらに北へ進むと
東西の順慶町通りと交差します。
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上方落語に「月宮殿 星の都」という
バカバカしいはなしがありますが。

「順慶町はどっちへ行ったらよろしおますやろ?」

「順慶町?そら下界やないかい」

「せやおまへん!大阪だす」

「それを下界ちゅうねがな」

昇天するうなぎ(鰻)に強引に連れられ
空の上に放り出された箱屋の徳兵衛が
雷の五郎蔵に出会ったところ。

「順慶町」を
「じゅんけまち」と発音していたような。
たしか!笑福亭松鶴(6 代)は。

もちろん!戦国武将の
筒井順慶の「順慶」からの命名でしょうから
「じゅんけいまち」が正しい日本語読みかも。
ま!大阪弁ですからね!「じゅんけまち」かな。



この心斎橋筋と順慶町通りの交差点が
江戸時代の商業の中心だったそうな。

そうそう!東に少し行ったところに
「きつねうどん発祥の地」と自ら名乗っていた
「松葉屋」があったはずですが。

あら!?ありませんね。
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「うさみ亭マツバヤ」という店舗はあります。
それが松葉屋と関係があるのかどうか。

余談ですが
大阪に流れて着いたとき長老たちから
「油揚げ」ののった「うどん」を
「けつね(狐)」と呼ぶが
「けつねうどん」と
強(し)いて「うどん」はつけないと
レクチャーされましたがね。

ついでにいいますと
煮込んだおでんのタネを「関東煮」と書いて
「かんとだき」と発音せよ!とも習いましたが
今どきの大阪人はみんな
「おでん」というようになっています。

「けつね」も
「きつねうどん」になってしまっているのかな。

私も
ことばが変化するのに立ち会うほど長い間
大阪に棲んでいたものですなぁ。



順慶町通りを西に進めば新町に行けます。

天下一の花街の新町。
だから!このあたりが
昼も夜もにぎわっていたのですね。

では!新町の方へ進みます。
すぐ!御堂筋と交差します。
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このあたりが勘四郎町といわれて
芝居小屋やらお茶屋がひしめいていたそうな。
もちろん!御堂筋が細い道だったころ。



さらに西に行ったら
「井戸の辻」があったそうな。
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井戸の辻のいわれは
寺院に有名な井戸があったからだそうですが。
それは「足洗井」と呼んで
新町の遊女が廓(くるわ)を出るとき
足を洗ったからだそうな。

「足を洗う」のこじつけみたいに感じますがね。
今はなんの面影もないですね。



阪神高速道の下が西横堀川。
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あの川に架かるのが新町橋です。

橋を渡ったところが不夜城・新町遊廓
世之介が好きな街。

もっとも!現在は
西横堀川は埋め立てられ
新町は遊廓のかけらもありませんが。

井原西鶴の好色一代男の世之介はいずこに。

新町橋の親柱だけがぽつんと展示されていました。
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(敬称略)
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