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雁治郎横丁は消え精華通りもやがて [わが街・大阪ブギウギ]

あれ!?
精華小学校の正面はこちらでしたか。
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年中!お祭りのように
にぎやかな戎(えびす)橋筋商店街。
道頓堀川の戎橋から南に高島屋までの
御堂筋に並行して東側を走るアーケード街ですが。

にぎやかな!
けばけばしいデコレーションの店舗ばかりの中に
忘れられたようにはさまれています。
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裏に回れば
廃校になっても
まだ!取り壊されることもなく
立ち尽くしている威容がおがめます。
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街灯に「精華通り」と書いてありますね。

戎橋筋の東の南北の通り。



この通りは昭和の初めのころ
初代・中村雁治郎(1860 ~ 1935)が
通っていた路地ということで
「雁治郎横丁」といわれて
昔の小説や戯曲にも登場していたのじゃないでしょうか。

この通りの北の突き当たり今のビックカメラの場所に
雁治郎が通わねばならない
大阪歌舞伎座があったのですね。

「ミナミの大火」と記録されている
明治 45 年(1912 年)の大火事で
あたり一面!灰燼(かいじん)に帰した後に
大正 3 年(1914 年)一大レジャー施設「楽天地」ができ
楽天地の跡に
昭和 7 年(1932 年)に
大阪歌舞伎座が建設されているのです。

雁治郎の最晩年のときの開業でしたか。
それでも「雁治郎横丁」だったのですね。

ちなみに
上方歌舞伎はしだいに凋落(ちょうらく)して行き
日本一といわれた歌舞伎の殿堂も
移転して縮小され新歌舞伎座になり
さらに小さく上本町駅横のビルに引っ越しています。



北側にまわり
千日前通りからビックカメラを見ます。
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千日前と書いてある商店街をはさんで
東のビルはアムザ1000 。
ここが芦辺劇場の跡らしい。

パナソニックのHP「松下幸之助の生涯」に出てきます。

大正の初めに活動写真が娯楽の頂点になり
芝居小屋が次々に映画館に改装されていったそうな。

大正 3 年(1914 年)芦辺劇場も改装工事に着手。
その電灯工事の責任者が
大阪電燈の電工 19 歳の幸之助だったそうな。

電灯工事を電飾工事と書いてある本もあるようです。
外部のイルミネーションの工事だったのでしょうか。

ときの流れの中で
演芸場になったり封切り館になったり
やがて映画も演芸も忘れ去られ
今は往時をしのぶよすがはなにもありません。



雁治郎横丁は消えて久しく
精華通りもやがて改名されるかも。
精華小学校の校舎もじきに粉砕されることでしょうから。

というのは
今の市長は過去とか歴史とか出自とか
そういうものは封印したくて!
いや!抹消してしまいたくて仕方のない人のような。
古いものはいらないのですかね。
私がそう感じるだけかも知れませんが。

それもひとつの見識。
間違いでも正しいことでもありますまい。
人間の存在なんて
地球がちょっと身震いしただけで
消えてしまう存在ですから。
ましてアンドロメダ銀河(星雲)が
刻々と確実に接近しています。

(敬称略)
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