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日焼けにご用心?! [手のひらを太陽に]

わが家の庭(?)の桃ケ池の小さなエビ(海老)を
私が容易に捕まえていると聞いて
「欲しい」という人が 2、3 人。

なにをするのかどうか。

釣りエサか。
他の魚や生物のエサか。
水槽で飼ってみたいのか。
あんまりかかわりたくもないので聞きませんが。

食べるのでしょうか。

最近の大阪人は川魚を食べませんね。

この周辺の商店街のたいていの川魚店に
川魚がありません。

昔はフツーに食べていたようなんですが。

大正から昭和の初めの食生活の聞き取りの
「聞き書 大阪の食事」に
「えび豆」なんて名前が出ています。

「河内(旧大和川流域)の食」に
大豆と川エビを煮ています。

「とてもうまい」とか。

海がなく琵琶湖に近い京都市にも
淡水の小エビと白豆の炊き合わせという「えび豆」が
「聞き書 京都の食事(京都近郊の食)」にありますね。

白豆とはやっぱり大豆のことらしい。



「あのエビなぁ!」
「黒くなったけど」

あ!?そうですか。
そういえば日焼けしたような。
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ぼうふら退治に外で飼っているのですね。
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桃ケ池は透明度が悪く
しかも水槽よりは当然!水深があります。

いきなり!陽光さんさんのところへ連れ出したから
焼けたのでしょうか。



数年前!
日焼けの養殖ダイ(鯛)が安価に売られていましたが。

養殖ダイは普段でも安いのに
日焼けしたらしい黒っぽいタイは
もっと安かったのですが。
最近!店頭にありませんね。

養殖場に屋根をかけたり
囲いを深く沈めたり
エサを工夫したりして
赤いタイにして出荷しているようだと
スーパーのおじさんがいっていましたが。
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紫ジャガイモのサラダ [いも!たこ!なんきん!]

  新しきサラドの皿の
  酢のかをり
  こころに沁みてかなしき夕(ゆうべ)

石川啄木(1886 ~ 1912)もサラダを食べたのですね。
どんなサラダだったのやら。
レタスだけだったのやら。

帝国ホテルのムッシュ・ムラカミ(1921 ~ 2005)が
普段のサラダは
レタスをちぎって皿に盛り
食卓で塩!胡椒!油!酢をかけて手軽に食べるものと
書いています。(村上信夫著/村上信夫の西洋料理)

サラダは「3C」だそうですよ。

クリア(clear) 洗いましょう。
コールド(cold) 冷やしましょう。
クリスプ(crisp) パリパリさせましょう。

洗ってない!冷えてない!ふにゃふにゃサラダの
どこかの自称高級割烹に教えてやりたいものです。



では!サラダを。
といっても材料は乏しいのですが。

わが家のベランダ産の紫色のジャガイモをゆでて
輪切りにしました。

マヨネーズと和えないポテトのサラダは
フランス式というらしい。

さらしたタマネギ!
キュウリの塩もみ!
紅生姜!
カマンベールチーズ!
ゆでたとうもろこし!
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「ごまドレッシング」が
各社からいろいろ発売されていますが
どれもなかなか力作ぞろい。
それをかけていただきます。



  あたらしきサラドの色の
  うれしさに
  箸とりあげて見は見つれども

たぶん晩年の啄木の歌。

啄木はサラドを食べられたのでしょうか。



(敬称略)
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ナマズの群れ泳ぐ川があった?! [わが街・大阪ブギウギ]

地下鉄長堀鶴見緑地線・蒲生四丁目駅から
アーケード街・城東商店街に入り南下します。

名前からすれば大阪市城東区を代表する商店街?!
人通りは途切れて静かなんですが。
どこから投函するのか大きなポストはありますが。
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ぶつかったところが古堤街道でしょうか。
今はなんの変哲もない道ですが
大坂(大阪)の京橋と
高山(奈良県生駒市)を結ぶ街道なんでしょうか。

「堤」というから堤だったのですね。
「鯰江川(なまずえがわ)」の堤を街道にしていたようです。

城東区のHPに
鯰江川の「三郷橋近くの川底から」
「楠の大木をくり抜いた大きな丸木舟が見つかりました」
「各地から弁当持参で見物に来る人もあった」
とあります。
古墳時代の舟かも知れません。

でも!もう!ありませんね。
先の大戦で米軍に焼かれてしまっています。
そのときに祀(まつ)った社だけありました。
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さらに城東区のHPには
鯰江川をはじめ
聞いたことも
地図にものっていない川が多く紹介されています。

楠根川!榎並川!千間川!猫間川(高麗川)!
川だらけだったのですね。

幻の三郷橋(ただの道ですが)を渡って
たぶん!野崎観音参詣の道を
今も残る寝屋川に出てみます。

寝屋川に架かる極楽橋を渡ります。
欄干に「野崎詣り」の屋形船の絵が。
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寝屋川左岸に沿って楠根川があったのですね。
川跡が緑陰歩道になっていました。
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寝屋川の新喜多橋を渡って
寝屋川の北に並行して流れていた鯰江川にもどります。

ただの道になっていて
いわれなければ分らない鯰江川跡を下ります。
つまり西の方へ歩きます。

JR城東貨物線との交差。
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道の両端の石垣は
川だったときの護岸の一部でしょうか。

鯰江川の右岸の堤
つまり北側の道・古堤街道を歩くことにします。

この道は左右の道に比べて少し高さがあるのです。
やはり鯰江川の土手だったあかしでしょうね。

JR・京橋駅近くになって
橋の欄干みたいなものが埋まっていました。
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蒲生橋?!
鯰江川に架かっていた橋かも。

やがて古堤街道はJRの下に。
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古い橋脚らしいものが残っています。

南の鯰江川の方へまわると
車道と歩道に段差がついています。
川だったときの名残りかな。
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ん?!
左のレンガの残骸(?)はなんです?!
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マンションの玄関口のオブジェ?!
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なんの意味があるのでしょう。
鈍いものには廃虚としか思えませんが。

JR線をくぐって元・鯰江川の左岸のダイエーと
右岸の京阪・京橋駅の間の歩道橋の上から振り向けば。
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ダイエーは土手の上!高台に建てられたのでしょうね。
段差はそのありし日の面影かも。


鯰江川とは
ナマズ(マナマズ)が
たくさん泳いでいたからでしょうか。

昔は!
北海道以外はどこにでも棲んでいたのでしょうけど。
梅雨の前ごろ
ふ化したオタマジャクシくらいな幼魚が
田んぼに!小川に!池にフツーに見られたはず。

幼魚のエサはなにか考えたことはないのですが
ひと夏で 10cm を越えるほどに急成長して
越冬地に落ちて行っていましたね。

歩道橋から旧・鯰江川を見下ろしていたら
うごめく人の頭がナマズに見えてきて
突然!戦慄が走った暑い夕暮れです。
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杉田かおるのグンゼのパンツ [パパラッチ!ママえっち?]

裾(すそ)をとりて未だ帯を結ばず
眉をひそめて前窓に出(い)ず
羅裳(らしょう)飄颺(ひょうよう)しやすく
小(すこ)しく開きて春風をののしる

  まだ帯は結んでいません
  いらいらしながら窓際にいます
  薄いスカートを春風が開いてしまったのに
  あなたはやってこない

「子夜歌」にありました。
もちろん!原詩は漢字ばかりですが。

子夜歌とは不勉強で存じませんが
呉(222 ~ 280)時代から
東晋(317 ~ 420)ごろに
長江流域ではやった歌曲でしょうか。

女性が歌った歌でしょうね。

色っぽいです。



ナイトキャップ代わりに
「閑吟集(1518 年ごろ)」をかざすと
ま!だいたい!ホントにナイトキャップになって
顔の上にかぶせてしまっていますが
艶っぽい小歌が多いですね。

花の錦の下紐(したひも)は 解けてなかなかよしなや
柳の糸の乱れ心 いつ忘れうぞ
寝乱れ姿の面影

  花のようなあの子の腰の紐を解いて
  楽しいことをしてしまったなぁ
  でもそれで心が乱れてしまった
  四六時中忘れられない
  寝乱れ姿の可愛い面影



紐をほどけばしあわせいっぱい!空いっぱい。
しかし!スカートはパンドラの箱でもあるようです。

それらを包むパンティはありませんか。
この時代にはなかったのやら。



パンティの嚆矢(こうし)は
16 世紀末の
出雲阿国(いずものおくに)からじゃないかと
青木英夫著/下着エロティスム/に
書いてあったような。

阿国の踊りはそれまでにない男性的な
ダイナミックなものだったそうです。
袴(はかま)を脱ぎ捨てて踊っていたので
裾が乱れ!下半身が丸見えになります。
そこで紫色のふんどしをしていたらしい。



杉田かおるが 17 歳のときに
大借金を返すために
「ヌード写真」の仕事を受けたそうな。

そのときに
可愛いものに替えてくれといくら頼まれても
グンゼの木綿のパンツ!
全く飾りのないパンツを脱がなかったそうな。

パンティやスキャンティはいや!
パンツだと主張して
天下の篠山紀信に嫌われたそうな。

16 年後
やっぱり篠山紀信のカメラで
今度は「ヘアヌード」を撮ることになったとか。

前と違っておとなになっていたので
3 日前からパンツをはかずに過ごしたそうな。
体にパンツの線が出たらいけないから。

ところが撮影当日の朝
習慣から思わず
パンツをはいて現場に行ってしまいました。

「線が!線が!」と
またもや大写真家を怒らせたそうな。
(杉田かおる著/すれっからし)

たぶん!大写真家は今でも
「あのパンツ女め!」と
ののしっていることでしょう。



あ!違うのです。
違うといっても、、、違うのです。

今夜は男歌と女歌について
高尚な(?)エッセイを書くつもりでした!
ホントーです。

どこで澪(みお)をはずしたんだろ。
初めから舟は港を出ていなかったのですかね。



(敬称略)
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土用餅ですが [お命!いただきます]

丑の日に籠でのり込む旅うなぎ

なんて川柳が
誹風柳多留(はいふうやなぎたる 1765 ~ 1840)に
のっていますが。

丑の日には江戸前だけでは足らず
うなぎ(鰻)が各地から売られてきたようです。

細かくいえばこの句は
柳多留 73 篇にのっているようですから
文政(1818 ~ 1830)のころ。
このころの江戸では「丑の日のうなぎ」が
あたり前になっていたのでしょうか。

平賀源内(1728 ~ 1780)が一鰻屋のために
コピー「本日土用丑の日」を書いてから
40 年以上後のこと。

根拠はないのですが
平賀源内の時代にすでに土用丑の日には
うなぎを食べる習慣があったのでは。



土用丑の日によく軽薄な人が引き合いに出す
万葉集の大伴家持(718 ~ 785)の歌。

石麻呂(いはまろ)に吾(われ)もの申す夏痩(やせ)に
よしといふものぞ鰻漁(と)り食(め)せ

痩(や)す痩すも生けらばあらむを将(はた)やはた
鰻を漁(と)ると川に流るな

これは
「夏痩せ」とはいっていますが
「土用丑の日」だけのことではありません。

「丑の日」には
「う」のつくものを食べるのだ!
だから「うなぎ」だ!という
安易な主張をする自称・博識者もいますが
万葉集の「鰻」は「むなぎ」と読むらしいですよ。

「丑」を「むし」とは読めないでしょう。



やっぱり!私はくどいのですが
樋口清之著「食べる日本史」の
丑の日の「丑」は
単純に「牛」の説を支持したくなりますね。

牛は黒い。
黒いものを食べれば牛のように丈夫になれる!のです。

ごぼう(牛蒡)!しじみ(蜆)!うなぎ!はも(鱧)!
これらは黒いでしょ。

うどん!
たぶん!スープが黒いのでは。
長塚節の「土」ではうどんを醤油で食べています。
明治の終わりの風俗を写生したものでしょう。

梅干!
たぶん!烏梅(うばい)の色から。

「土用餅」なんてスーパーのちらしにありましたが。
餅に塗ったあんこの色やその形が
「牛」でしょうか。



冷凍庫の奥に餅があるのです。
ま!正月の残りでしょうけど。

焼いて
「うなぎの(かば焼きの)たれ」をぶっかけたら
わが家の「丑の日」の縁起もの。
鰻の肝焼きを添えたらごちそうに見えませんか。
blog土用餅.jpg



今年の「土用丑の日」は 2 回巡ってきますが
鰻を食べる予定はありませぬ!食べられません。
なにもかも不調法です。
牛なら
牛丼なら貧乏人でも食べられる時代です。



(敬称略)
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