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赤川鉄橋!淀川の渡しの終焉 [わが街・大阪ブギウギ]

淀川を渡る豊里大橋(とよさとおおはし)。
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右岸の大阪市東淀川区と
こちら側左岸の旭区を結んでいます。
日本万国博覧会(1970 年)のために架けられた橋。

橋がない時代には渡し舟があったそうです。

左岸の堤上に大きな碑があります。
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右岸にもあるはず。
大汗をかいて
クズのつると葉を取り除いたら出てきました。
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字が違いますね。
同じ「渡し」でしょ!
「平太の渡し跡」と「平田の渡し跡」!はは。

「平太」は個人名から!?
「平田」は地名から?!らしいけど
渡しが始まったのは 17 世紀!よく分りません。



左岸の川に降りてワンドの横を川下に歩きます。
イタセンパラの再発見されたあたり。

ワンドとは河川敷の中の水たまり。
ただの池と違い
増水時には本流とつながり
一体化して大きな川になるところ。

あ!
たくさん浮いている水草はヒシ(菱)ですか。
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ヒシの実の採集にはここへくればいいんですね!
洪水時によくまあ流されてしまわないものです。



見えてきたのは淀川橋梁。
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JR西日本の城東貨物線の鉄道橋。
向こう岸はやはり東淀川区ですがこちら側は都島区。

地元の人はだいたい「赤川鉄橋」と呼んでいますね。
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架橋は古い!昭和 4 年(1929 年)といいます。

複線の設計のようですが単線で運行しています。
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線路に使わない半分は
大阪市が借り受けて歩行者用に仮設工事をしています。

その歩道の公式名称は「赤川仮橋」らしい。
床にチェッカープレート(縞鋼板)を敷設し
手すりは木製。

この木製の手すりが情緒豊かなこと。
ワンドがよく観察できますね。
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橋長は 600m あまり。
さわやかな散歩道です。



最近!用もなく(失礼!)うろうろして
通行のじゃまをしている人が多いですね。
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私もそう思われていることでしょうけど。
私と違うのは!
みんな高そうなカメラを携えています。
鉄道マニアでしょうか。

橋の両出口に案内板が立てられたからです。
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「赤川仮橋は平成 25 年 10 月 31 日(木)24 時に」
「閉鎖することになりました」

JRがいよいよ複線工事をするのですか。
もうすぐ 80 年を越えた歩道橋は解体されそうです。
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千林の千恵里の輪定食 [食い逃げ未遂]

大阪市旭区の
千林商店街(と!それに連なる商店街)を歩けば
楽しくなります。
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安いからです。

今はどこの商店街も頑張っていて
そんなに値段の差はないかとも思うのですが
なぜか安く感じて
あるときには里芋を
またあるときにはサツマイモを
そして最近ではジャガイモを(イモばっかりですのぉ!)
ザックにいっぱい買って
遠いわが家まで重い思いをして帰ったことがあります。

うどんをとりあえず 90 円で食べられます。
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向かいの焼きそばは 130 円。
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焼き冷ましなら 100 円!焼き冷ましでいいです!

ソフトクリームは 110 円。
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あれ!?
わが家の近所の商店街で
先日!「ここしかない!」と思ってあわてて買ったザック。
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私は 950 円で買ったのですが
ここではさらに 5 円安い!はは。



しかし!裏にまわれば意外と喧騒(けんそう)がなく
複雑な路地が入り組んでいます。

野崎街道やら京街道やら
池とか川とかクリーク(小運河)とかが
錯綜していたけど戦災にもあわず
埋め立てられたりして複雑な町並みになったのかも。

その人通りのない路地にのれんがかかっています。
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古い建てものです。

人見知りでケチな私なら
普段は敬して近寄らないのですが
なぜかふらふらと入ってしまいました。
もう午後をだいぶ過ぎていて
ランチができそうだったので。

靴を脱いで上がり
通された客室は落ち着いた邸宅の居間!?
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メニューには定食ひとつとカレーと
自家製のケーキとコーヒーとかの飲みものだけ。

その「輪(つながり)定食 1200 円」というのをいただきます。
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本日の献立。
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京懐石風です。
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急須の中はお茶です。

箸袋に「ほっこりしましょ」!
ほっこりさせていただきましょう。


美人の姉妹がもてなしてくださいます。

築 100 年
姉妹の生家だそうですが
無住になっていたのがしのびず
活用を始めたのだとか。

屋号は「千恵里」
千恵さんと恵里さんのおふたりの名の合体?!と
早合点して帰りましたが
今!書きながら考えれば
「千林」の「恵み」の「里」という意味かもね。
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女夫饅頭 出雲 長谷鉄道跡 [町道!街道!眠り未だ足らず]

近鉄・大和朝倉駅から長谷寺へ向かいます。

初瀬川沿いの道をさかのぼります。
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が!
伊勢街道の初瀬道を歩いているつもりですが
はたして!?

横の国道 165 号線の方が立派(!)ですから
そちらが伊勢街道なんでしょうか。
第一!初瀬道を「はつせみち」と読むのか
「はせみち」と呼ぶのかも分りません。

宮脇俊三編著/鉄道廃線跡を歩く/や
日本鉄道旅行地図帳/に
長谷鉄道(初瀬軌道・初瀬鉄道)の単語があります。

桜井~初瀬間 5.6km とありますが。
どこを走っていたのでしょうか。
桜井~長谷寺間を歩いた私の感じでは短いような。
ん?!
たぶん!長谷鉄道と並行して走っている現在の近鉄の
桜井駅~長谷寺駅間が
5.8km とありますからそんなものですか。



雄略天皇の泊瀬朝倉(はつせあさくら)宮跡と治定されていた
白山神社を過ぎ
ん!?
「出雲の流れ地蔵」さま!
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出雲?!地名なんですか。
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十二柱神社がありました。
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狛犬をそれぞれ 4 人の豪力男が支えています。
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野見宿禰(のみのすくね)の墓所らしい。
あの伝説の相撲の祖といわれている人?!

山陰の出雲の人じゃなかったのですか。
それに墓所は播磨の国
赤とんぼの里・龍野で参拝したことがありますが。

土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ
埴輪(はにわ)を作出したらしく
大阪は藤井寺市に土師ノ里の名が駅名に残っていますが。

それらがそっくりこの村のこととして
伝承されているのですね。



ほどなく長谷寺が見えてきました。
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9 月の門前町は閑散としています。

「やまとびとのこころの店」で
「女夫饅頭(めおとまんじゅう)」をいただきます。
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酒まんじゅうでしょうか。
あん入りの白い生地と
おなじくあん入りの赤い生地を重ねて
ふたつの間にもあんを入れて蒸しています。

女夫饅頭の歴史は古く
文献でさかのぼる限り 270 年前には
長谷寺の近くの黒崎村で
なん軒もが店頭で蒸していたようです。

半世紀前にすでになくなっていたまんじゅう。
最近!街おこしに復興させたようです。

冷たいコーヒーとセットで 900 円でした。



(敬称略)
タグ:廃線
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堺の餅は大寺餅 芥子餅 肉桂餅 [食い意地]

長塚節(1879 ~ 1915)著/松虫草(原作は旧漢字)/に
堺の町はずれ
百舌鳥耳原中陵
(もずのみみはらのなかのみささぎ=仁徳天皇陵)が
出てきます。

明治の終わりのことでしょうか。

陵近くのすすきの穂の中のわらぶきの茶店に
大きな文字で「大寺餅あり」と書いてあったそうな。

大寺という寺の境内の餅屋がおろしているとか。
特別な日には 23 石あまりの餅をついて
和歌山あたりまでおろしている日本一の餅屋だそうな。

余談ですが昔のつづり方ですので
「23 石」は「2、3 石」(360L~540L)かも。

慶長元年(1596 年)創業だとか。
慶長といえば関ヶ原の戦いのころ。

大寺というのは開口(あぐち)神社のこと。
餅は今でもあるのでしょうか。

観光案内所で問うと
先の戦争で焼けたけど別の場所で営業しているとか。

なるほど!
土居川の相生橋近くに大寺餅はありました。



大寺餅!ひとつください。

「ひとつというのは、、、ちょっと」

ひと箱買わねばなりません。
小さなあんころ餅なんですね。

むっつ入っていて 525 円。

「昔はもっと大きな餅だったのかも知れません」と
店のおね~さんがいいます。

長塚節の松虫草では
三角な黄粉(きなこ)餅をみっつ串に刺したものとありますが。



堺は東洋のベニスといわれた港町。
いろんな物資が上陸していたのでしょう。

砂糖なんかも豊富にあったのでしょうか。
あんころ餅の嚆矢(こうし)がこの大寺餅だったのかも。

芥子(けし)の実もインドあたりから入ってきて
お菓子に使われたり
植えられてもいたのでは。

本家小嶋で芥子餅をふたつ買いました。1 個 115 円。

浅学にして心配したのですが
芥子餅がもしかして芥子(からし)餅だったら?!
ケシとカラシはおんなじ字ですよね?!自信がないけど。



シナモン(肉桂)も豊富にあったようです。

シナモンで作った餅も残っていました。
八尾源来弘堂で
肉桂餅をひとつ買います。210 円。



みんなまん丸だったのですが
ザックの中でいびつになって帰宅しました。
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(敬称略)
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多武峯街道!鎌足の影法師 [いわなが姫の丑の刻参り]

近鉄とJRの駅がくっついている桜井駅で降ります。

桜井市は大和のまほろば
王権や豪族の発祥の地としての
伝説に満ち満ちているところ。

由緒ありそうなものに
苦労して探さなくても容易に遭遇し
纒向(まきむく)地区なんかは踏んでいる土のすべてに
遺跡が埋まっているかのようです。

山の辺の道をめざして
北に出ることが比較的多いのですが。

南の多武峯(とうのみね)方面に行くときもあります。
その場合にはたいていバスを使っていました。

川沿いに南へほぼまっすぐ歩けば迷うことなく
多武峯・談山(たんざん)神社へ行けるはず。
歩いてみましょうか。
この道を桜井市は多武峯街道と名づけているようです。



あ!日本書紀にあった鳥見山(とみやま)は
この東にあるのですか。

今日はしばらく忘れていた
足の痛みがぶり返しているので頂上までは敬遠して
その山と関係ありそうな等彌(とみ)神社に寄ります。

静かな神社です。
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うっそうとした木々の中
やたら句碑や歌碑のある境内です。

こんなにいい雰囲気なのに観光客がきませんね。
観光客が押し寄せたらムードがぶちこわしになるから
これでいいのかも。

「子宝石」ですか。
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こどもは宝ですもんね。

小学校の塀に。
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「早ね 早おき 朝ごはん」ですか。はは。



多武峯街道にもどればほどなく一の鳥居。
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ここから神社まで
町石が 52 基建てられているそうな。

桜井市教育委員会の案内板によると
その距離が不可思議。
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5.56m !?短すぎる?!

以前から指摘しているのですが
なん年も変化がないのでこれでいいらしい?!
私の読解力がないだけですか。

町石はさすがに 350 年経たら
風化が進んでいますが
今も参詣者の案内の用をはたしていますね。
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(真ん中のひび割れた石がそうです)


山ふところに聖林寺(しょうりんじ)が見えます。
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定慧(じょうえ)が妙楽寺の別院として
712 年に開いたそうです。
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定慧(643 ~ 666)は俗名・中臣真人(なかとみのまひと)
藤原鎌足(614 ~ 669)の長男です。
653 年唐に渡り 665 年に帰国し!
なぜか帰国後すぐ死んでしまいます。

その定慧が 678 年!多武峯に妙楽寺を建立し
大阪府高槻市の阿武山(あぶやま)中腹から
鎌足の遺骨をそっくり移したそうな。

さらに定慧は
そのそばに神殿を建てました。
701 年のこと。
それが談山神社。

すべて定慧が死んだ後のことじゃないですか。
父・鎌足より先に死んだ定慧が
生き返って走りまわったかのようです。



さっぱり!分りませしぇ~ん。
私が日本の歴史にうと過ぎるだけでしょうね。

仏教推進派の蘇我氏を討った
仏教嫌いのはずの鎌足なのに
10 歳の大切な長男を
なぜ出家させ唐に送り出したのでしょう。

それに昭和 9 年(1934 年)偶然阿武山で発見された
鎌足と思われる遺骨の写真を見る限り
移されたり!分骨されたりした形跡がないのですが。



鎌足は大化の改新(645 年)のごほうびに
中大兄皇子(なかのおおえのみこ 626 ~ 672)から
懐妊した女御(にょうご)をいただいたのだとか。

そして生まれたのが
藤原家の実質始祖に当たる鎌足の次男の
藤原不比等(ふひと 659 ~ 720)。
平安後期の藤原道長の盛りのときの
道長をたたえる大鏡なんかに
「不比等は天智天皇(中大兄皇子)の子」と
くり返し書かれていますから
ホントのことかも。

しかし!ごほうびといったって
大化の改新から 14 年も過ぎて?!
それに!ごほうびにはもっと
フレッシュな少女をいただきたいものですが。



やめましょう。
まだ私の不可思議に思うことは山ほどありますが
無知をさらけ出すのも恥ずかしいから。

私の短絡的な結論はあります。

大化の改新はなかったのだ!
ただ!聡明な蘇我入鹿個人をねたんだだけ!
他の蘇我一族の人とは仲がいいじゃないの。
これは単純な私怨なのだ!
それを美化しようとして失敗(?)したのだ。

お笑いめされるな。



32 代崇峻(すしゅん)天皇(553 ~ 592)陵に寄ります。
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この天皇陵も初めに治定された陵が貧弱だというので
この地に替えたようです。

50 代くらいまでの陵は
1 度みんな発掘してみたらいいのでは。

それで皇室に対する国民の敬愛が
変化することもないと思うのですが。



ここまで多武峯街道(約 9km)のほぼ半分
あとは単調な上り!黙々と体力勝負です。
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