SSブログ

橘諸兄 カニの恩返し 竹の秋のころ [町道!街道!眠り未だ足らず]

竹の秋竹の里歌皆淡し (相生垣瓜人)

竹の秋です。
わが恋のように力なくさらさらと
竹の葉が散り重なれば石段はすべりやすい。
blog71.jpg

石段の上には
橘諸兄(たちばなのもろえ)公旧址。
blog72.jpg

諸兄(684 ~ 757)の墓だという人もいますが
どうでしょう。
別業(別荘)のあったあたりには相違ありません。

諸兄は「井手左大臣」とも呼ばれ
ここ京都府井手町では町一番の英雄かも。

歴史にうとい阿呆はどんな人物か知りませんが
さいわいというか
手塚治虫作/火の鳥/鳳凰編/を
大昔にパラパラめくったことがありますよ。

鳳凰編は東大寺の大仏建立のはなしですから
ま!そういう時代の人でしょう。

余談ですが!鳳凰編では
諸兄と吉備真備(きびのまきび)の
葛藤が描かれていますが
ふたりのテキは「藤原氏」じゃないんでしょうか。
藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)なんか。



のどかな道を
JR奈良線につかず離れず南下していたら
蟹満寺(かにまんじ)に着きました。
blog73.jpg

今昔物語に「蟹の恩返し」があるそうなんですが。

妙齢の娘が村人に捕まったカニを助けました。

その父親は
大蛇に食われそうになっているカエルを
助けようとしたら
ヘビは交換条件に娘を嫁にくれといいました。

カエルを助けるために
やむを得ず承知すると
後日!大蛇は約束通りにやってきました。

しかし!恐怖から家には入れなかったので
大蛇は怒って暴れ狂います。

そこへ無数のカニが出現して
大蛇を切りきざんだそうな。

いいはなしですが
そのとき!カエルさんはどうしていたの?!
助太刀に参上しなければいけないでしょうが。
おしっこかけるとか。
カニの甲羅が乾かないように。

そのカニとヘビを供養した寺だとか。

あ!そうそう!
カエルさんが水に潜って
金や真珠を集めて
寺を建立したことにしたらいいのでは?!



よく分かりません。

詳細を絵解きでもしてあるのかと訪ねたのですが
最近立てられたような
蟹類の供養塔があるだけでした。

すぐ横に綺原(かんばら)神社がありました。
このあたりの地名に
「綺(かん)」がつくのじゃないのでしょうか。
それが「カム」とか「カニ」とか変化して
寺号も「カニ満寺」
「蟹満寺」になって
「蟹の恩返し」と結びつけたのでは!?
といえば叱られますかな。

大きなカニだらけを期待していたので
ちょっとがっかり。



さらに南下していたら
棚倉駅近くに!
blog74.jpg

なんでしょうか!?
blog75.jpg

筍(たけのこ)!
「JA山城町 棚倉筍卸売市場」でした。

淡竹(はちく)ではないようですね。
孟宗竹の最後の筍かも。

あ!「山城町」はもうありませんね。
このあたりは木津川市に変わっていました。



西から流れてきた木津川が
突如!北に曲がるところ。
大きな仏さま。
blog76.jpg

石造?!
泉橋寺地蔵尊像だそうです。
5m 近くありますね。

泉橋寺は行基(668 ~ 749)が
木津川に架橋したときの建立らしい。

火の鳥/鳳凰編/では
良弁(ろうべん)が全国行脚していますが
行脚(あんぎゃ)は
行基の方がいいのじゃないかと
無学なものは思ってしまいますが。
ま!面白い解釈です。



その橋の末裔か
「泉大橋」を渡ります。
blog77.jpg

面白い意匠の橋です。

橋を渡ればほどなく
JR木津駅。

「木津」と「津」がついているので
港だったのかも。

奈良の都に物資を運ぶ船便は
地理にうといものは
すぐ大和川航路を思い浮かべたりしますが
それは南側ルートかも。

淀川から木津川をさかのぼる北のルートも
充分有力な航路だったのでは。
木津で荷を揚げて
陸路を運んでも
都までそんなに遠くはなかったのでは。

こんなに大きな川ですから。
blog78.jpg



冒頭の瓜人の句!
この地にはなんら関係はありません。
タグ:火の鳥
コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感