福知山廃線の紅葉は黄葉 [野道!山道!恋はけもの道!]
初冬の武庫川を下ります。
福知山廃線跡をたどります。
紅葉の季節も終わるころでしょうか。
紅葉と書きますが
真っ赤ではありませんね。
秋山の もみちの茂み 迷(まど)ひぬる
妹(いも)を求めむ 山道(やまぢ)知らずも
万葉集(2-208)の柿本人麻呂の歌。
山に迷い込んだ妻を
探そうにも道が分からないようです。
妻を亡くして悲しみを歌っているとか。
訓読みは
佐佐木信綱編/新訓 万葉集/にたよりましたが
原文は
秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母
でした。
「黄葉」を「もみち(もみじ)」と読んでいますね。
万葉のもみじは黄色なんですね。
万葉集には「黄葉」の歌がたくさんあります。
たぶん 100 首は越えているのでは。
大伴旅人が亡くなったとき
だれかが歌っています。
見れど飽かず いましし君が もみちばの
移りい去(ゆ)けば 悲しくもあるか (3-459)
原文は
見礼杼不飽 伊座之君我 黄葉乃 移伊去者 悲喪有香
やっぱり「黄葉」のようです。
「黄葉」は「死出」を意味するのでしょうか。
あしひきの 山のもみちに しづくあひて
散らむ山道(やまぢ)を 君が越えまく (19-4225)
足日木之 山黄葉尓 四頭久相而 将落山道乎 公之超麻久
大伴家持が旅立つ人を見送って歌っています。
これは死んだ訳ではありませんね。
死別!生別はともかく
「黄葉」は「別れ」なんでしょうね。
妹(いも)がりと 馬に鞍(くら)置きて いこまやま
うち越え来れば もみち散りつつ (10-2201)
妹許跡 馬鞍置而 射駒山 撃越来者 紅葉散筒
恋人のもとへ行こうと馬で生駒山を越えていると
もみじが散りかかるということでしょうか。
これは「別れ」でも「死出」でもないような。
あ!?
ここの「もみち(もみじ)」は「紅葉」です!
万葉集にも「紅葉」があるんですね。
今開いているのは
佐佐木信綱編/白文 万葉集/ですが
誤字ということはないでしょうね。
「五行説」の「五色」かも。
黄色は「土」!
すなわち!土に帰る「死」を暗示しているのかも。
黄色は寂しいのでしょう。
赤色は「火」ですね。
先ほどの歌の作者(詠み人は不明ですが)は
恋人に会うために
馬を飛ばして生駒山を越えています。
それは悲しい別れの色では不向きです。
燃える「火」です。
情熱の赤い色!
だからこの場合「もみち(もみじ)」は
「紅葉」と書かねばならないのです。
なんて思いつきましたが
たぶん!間違っているような。
他言は無用に存じます。
青春前期。
あ!私の青春前期ですよ。
私にもあったのですよ!純真な時代が。
人生いきなり!エロ!グロ!ナンセンスに
突入した訳じゃありません。
そのときに古い映画に遭遇したのですが。
木下惠介監督/1955 松竹/
野菊の如き君なりき/です。
その中で
主人公・政夫は
「民子は左の手に」
「もみの切れに包んだ小さなものを握って」
死んだと聞かされます。
この「もみ」が不勉強で成績はサイテーで
ふてくされていたものには分かりませんでした。
原作(伊藤左千夫作/野菊の墓)を読むと
「もみ」には「紅絹」の漢字が書いてあります。
どうやら「ベニバナ(紅花)」をもんで
絹布を染めたら
「紅色」になるとは分かりましたが。
しかし!染色したこともなければ
だいたい!当時はベニバナを見たこともありません。
どうにも弱った青春前期。(しつこくてすみません)
もんで赤く染めるので「もみ」
赤い色は「もみ」
赤く染まる葉は「もみち(もみじ)」!
そうなんですよ!きっと。
でも「もみち(もみじ)」の
「ち(じ)」はなんじゃらほい?!
ま!
「黄」が別れの色!
「赤」が情熱の色と仮定していたのに
「野菊の墓」ではあてはまりませんね!はは。
いつかのおね~さんは情熱的(?)でしたね。
初夏でしたね。(拙ブログ 2014/05/09)
情熱的というより
ただ!シャクガの幼虫(尺取虫)に
悲鳴をあげていただけでしたが。
シャクガも
ムシもヘビもイノシシも
あのアラフォー(around 40)のおね~さんも
気配を消してしまった廃線跡です。
私には紅葉ではなく!黄葉が散るばかり。
思いやりの足らない人生。
もっとみんなに
やさしくしてあげたらよかったですね。
(敬称略)
福知山廃線跡をたどります。
紅葉の季節も終わるころでしょうか。
紅葉と書きますが
真っ赤ではありませんね。
秋山の もみちの茂み 迷(まど)ひぬる
妹(いも)を求めむ 山道(やまぢ)知らずも
万葉集(2-208)の柿本人麻呂の歌。
山に迷い込んだ妻を
探そうにも道が分からないようです。
妻を亡くして悲しみを歌っているとか。
訓読みは
佐佐木信綱編/新訓 万葉集/にたよりましたが
原文は
秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母
でした。
「黄葉」を「もみち(もみじ)」と読んでいますね。
万葉のもみじは黄色なんですね。
万葉集には「黄葉」の歌がたくさんあります。
たぶん 100 首は越えているのでは。
大伴旅人が亡くなったとき
だれかが歌っています。
見れど飽かず いましし君が もみちばの
移りい去(ゆ)けば 悲しくもあるか (3-459)
原文は
見礼杼不飽 伊座之君我 黄葉乃 移伊去者 悲喪有香
やっぱり「黄葉」のようです。
「黄葉」は「死出」を意味するのでしょうか。
あしひきの 山のもみちに しづくあひて
散らむ山道(やまぢ)を 君が越えまく (19-4225)
足日木之 山黄葉尓 四頭久相而 将落山道乎 公之超麻久
大伴家持が旅立つ人を見送って歌っています。
これは死んだ訳ではありませんね。
死別!生別はともかく
「黄葉」は「別れ」なんでしょうね。
妹(いも)がりと 馬に鞍(くら)置きて いこまやま
うち越え来れば もみち散りつつ (10-2201)
妹許跡 馬鞍置而 射駒山 撃越来者 紅葉散筒
恋人のもとへ行こうと馬で生駒山を越えていると
もみじが散りかかるということでしょうか。
これは「別れ」でも「死出」でもないような。
あ!?
ここの「もみち(もみじ)」は「紅葉」です!
万葉集にも「紅葉」があるんですね。
今開いているのは
佐佐木信綱編/白文 万葉集/ですが
誤字ということはないでしょうね。
「五行説」の「五色」かも。
黄色は「土」!
すなわち!土に帰る「死」を暗示しているのかも。
黄色は寂しいのでしょう。
赤色は「火」ですね。
先ほどの歌の作者(詠み人は不明ですが)は
恋人に会うために
馬を飛ばして生駒山を越えています。
それは悲しい別れの色では不向きです。
燃える「火」です。
情熱の赤い色!
だからこの場合「もみち(もみじ)」は
「紅葉」と書かねばならないのです。
なんて思いつきましたが
たぶん!間違っているような。
他言は無用に存じます。
青春前期。
あ!私の青春前期ですよ。
私にもあったのですよ!純真な時代が。
人生いきなり!エロ!グロ!ナンセンスに
突入した訳じゃありません。
そのときに古い映画に遭遇したのですが。
木下惠介監督/1955 松竹/
野菊の如き君なりき/です。
その中で
主人公・政夫は
「民子は左の手に」
「もみの切れに包んだ小さなものを握って」
死んだと聞かされます。
この「もみ」が不勉強で成績はサイテーで
ふてくされていたものには分かりませんでした。
原作(伊藤左千夫作/野菊の墓)を読むと
「もみ」には「紅絹」の漢字が書いてあります。
どうやら「ベニバナ(紅花)」をもんで
絹布を染めたら
「紅色」になるとは分かりましたが。
しかし!染色したこともなければ
だいたい!当時はベニバナを見たこともありません。
どうにも弱った青春前期。(しつこくてすみません)
もんで赤く染めるので「もみ」
赤い色は「もみ」
赤く染まる葉は「もみち(もみじ)」!
そうなんですよ!きっと。
でも「もみち(もみじ)」の
「ち(じ)」はなんじゃらほい?!
ま!
「黄」が別れの色!
「赤」が情熱の色と仮定していたのに
「野菊の墓」ではあてはまりませんね!はは。
いつかのおね~さんは情熱的(?)でしたね。
初夏でしたね。(拙ブログ 2014/05/09)
情熱的というより
ただ!シャクガの幼虫(尺取虫)に
悲鳴をあげていただけでしたが。
シャクガも
ムシもヘビもイノシシも
あのアラフォー(around 40)のおね~さんも
気配を消してしまった廃線跡です。
私には紅葉ではなく!黄葉が散るばかり。
思いやりの足らない人生。
もっとみんなに
やさしくしてあげたらよかったですね。
(敬称略)
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