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石切の近鉄廃線 野蛮人たちの戦い [いわなが姫の丑の刻参り]

駅の跡があります。
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大阪と奈良を隔てる生駒山の中腹。
こちらは大阪側です。
フェンスと工事用のくるまがじゃまで
よく見えませんが
奈良に抜けるトンネルの入り口があります。
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もちろん!トンネルも閉鎖されていますが。

ここは近鉄・奈良線の孔舎衛坂駅の跡だそうな。
なんと読むの?!
難解な漢字。

「くさえざか」駅ですか!

昭和 39 年(1964)廃止。
新しいトンネルができてルートが変更されたらしい。

孔舎衛坂駅と
大阪の方へつぎの駅の石切(いしきり)駅が
廃止され
その間に新しい石切駅ができたとか。



孔舎衛坂駅は
大阪電気軌道・日下(くさか)駅の名で
大正 3 年(1914)に誕生していました。

その後!
鷲尾駅と改名したとか!理由は知りませんが。

さらに昭和 15 年(1940)難解な
孔舎衛坂駅になったとか。

昭和 15 年は「皇紀二千六百年」
神武天皇バンザイ!
猫も杓子ももろ手を上げてバンザイのときです。



日本書紀によると
神武天皇が東征して畿内に入り
まず生駒山を越えようとします。

当時!大阪湾の奥に河内湾があったのです。
生駒山の急峻な山裾まで海だったはず。

上陸したところ
長髄彦(ながすねひこ)という
たぶん脛(すね)の長い部族(どんな人種です?)が
迎え撃って
神武の兄の五瀬命(いつせのみこと)に矢を当て
撤退させています。

その戦いの場所が孔舎衛坂(くさえのさか)だそうな。

だから「皇紀二千六百年」記念にふさわしく
改名したのでしょう。
今から思えば理解に苦しむはなしですが
当時の立派な(?)国民には
不思議なことじゃなかったはず。



あれ?!
その神武天皇が上陸したのは
河内国の草香(くさか)村の
白肩津(しらかたつ)とありますがね。

神武天皇!といっても
このときには神日本磐余彦天皇!
古事記の表記では神倭伊波礼比古命!
すなわち
カムヤマトイハレビコノ(スメラ)ミコトでしょうけど
メンドくさいので神武天皇といいますが。

また!古事記では
日下(くさか)の蓼津(たでつ)で
防戦したとありますが。

この地は近代まで日下村と称していたそうです。

孔舎衛坂(くさえのさか)ではなく
「くさかのさか」じゃないの?!

写本が間違っていたのを
また写本して伝わっているのじゃないの!?
根拠はないですが。



しかし!ここで負けているのですよ!神武軍は。

そして!兄の五瀬命は
この傷が元で絶命しているのですよ。
結果!紀伊半島を大きく迂回し
熊野から再上陸をせざるを得なかった
あんまり縁起のいい地名ではないのに。

ことさら駅名を
変更する必要はないように思えますがね。

「皇紀二千六百年」そのことばが
実体のない
得体のしれない呪文のようでもありますけどね。



近鉄はこの地をどうするのでしょう。
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工事車両が出入りして
なにやら騒々しいですが。

もう整地して歴史から消すのでしょうか。

眼下に建てものがひしめいています。
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5,000 年前は河内湾か河内湖だったところ。

このあたりはそうとう高台ですね。

神武軍は下からきたとすれば
上から戦う方が有利だったのかも。



余談ですが
古事記・日本書紀は
実話じゃないといわれて久しいのですが。
あまりにも荒唐無稽なはなしばかりですから。

ところが!
特に古事記は天皇家の歴史書のはずなのに
結構恥なこと!情けないこと!野蛮なことを
書き連ねています。

偽書なら!
まったくの作りばなしなら!
いいことだけ!自慢ばなしだけ書いてもいいはず。

記・紀は似ているようで
ビミョーに違います。
成立が 10 年も違わないのに。

ということはなんらかの史実が確かにあって
伝えられた形がいろいろ変化していたのかも。

下の河内湾に野蛮な船団が見えます。

畿内の部族から見れば
辺境の九州から「力」を誇示して上陸する神武軍は
野蛮に見えたはず。

戦いはあったのですよ!きっと。
そのときにはこちらが正義のはず。



(新潮社/日本鉄道旅行地図帳/)
(福永武彦訳/古事記/)
(宇治谷孟著/日本書紀/等を参照しました)
タグ:古事記 廃線
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