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春団治の碑から伊丹空港へ [町道!街道!眠り未だ足らず]

噺家(はなしか)の
桂春団治の顕彰碑を訪ねます。
阪急・石橋駅からとぼとぼ。

あれ?
しばらくして!
先ほど通った道に出てしまいました。

闇雲にあたりをつけて歩いていると
よくこうなりますね。あは。
モバイルデータ通信ができるもの!
なにか欲しいこのごろ。

ま!ぜいたくは敵だ!
欲しがりません!勝つまでは。

なんのこっちゃ!抹茶に紅茶!(意味ありません)

それは住宅街の寺院の前にありました。
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この受楽寺は天正元年(1573)創建。
とても古いお寺ですが
初代・2 代桂春団治の顕彰碑は
平成 20 年(2008)建立の新しいもので
2 代目がその時代の住職と
親交があったという事由だけですので
だれも知らないはずです。



受楽寺から 10 分も歩けば下河原緑地。
大阪国際空港(通称・伊丹空港)の北の端。

展望デッキから滑走路が見えます。
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思ったより多く次から次へ飛び立ちますね。
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空港機能が
ほとんど関西国際空港に移ったような
認識を持っていましたが。

なんの関係もないのですが
「次々」と「下河原」とくれば
連想されるのは下河原朋美。

この人!三浦彩香から河合美保!吉田美恵子!
遠峯ありさを経て華原朋美になったのでしたか。

あどけない顔でなぜか「変節」の匂い。

その都度!いつも「本名同じ」といっていたはず。



余計なことを考えて歩いていたら
うわ!
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ぼ~っと高い空を仰いでばかりいたのです。
すると!いきなり後ろから!

西に回って
空港に沿って南へ
正確には南東方向へ歩いたのです。

交通量が多く
歩道はなく
よいこは緊張して歩きましょう。
よいこが歩く機会はまずないとは思いますが。

危険な車道を 30 分もだらだら歩けば
公園に入りました。
伊丹スカイパーク。
滑走路に並行して 1.2km も伸びている広い公園です。
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幅は 80m 足らずですが
小高く丘のように造られている公園なので
飛行機が間近で飽きるほどよく見られます。

飛行機の離陸を見ていたら
反対側!後ろから着陸してきたのです。
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注意力散漫。



公園にはカップルや幼児連れの人が多い。
歩いている私はいいとしても
交通の便がいいとはいえないのに。

私の好きな雑木林や喬木はないのですが
どの屋根のあるベンチにも
ミスト装置が涼を演出していました。
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石積みがすてきです。
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蛇籠(じゃかご)でしょうか!これも。

環境と景観によさそう。

小石というのはふしぎですね。
ひとつひとつはたよりなくころがっているだけなのに
固まると柔軟性と強度を持つなんて。

鉄道の敷石なんてだれが思いついたのでしょうね。



この空港は廃止になるはずでしたよね。
関西国際空港が開港したら。

伊丹市は「大阪国際空港撤去都市宣言」を
たからかに掲げていたのですが。

廃止になるときがきたら
「空港大好き!」と変節。
なんのこっちゃ!抹茶に紅茶!(意味ありません)

世界の少数集落に見られますが
民度が低くみじめ!差別されている!ので
援助という名のおカネをつぎこみます。

そのカネで勤労意欲もなく
アルコール依存症なんかで過ごすようになります。

「もう!フツーの人になったよね!じゃ!援助打ち切り」
なんていえば
「まだ!差別されている」と怒り出すようなもの。

「してないよ!」
「じゃ!して!差別して!差別好き!」なんて
自らがいったりしてね。

ふと!そんな不謹慎なことを思い浮かべたりして。



そんなに飛行場が好きなら
今!話題になっている普天間基地移設!
ここに持ってきたら
丸くおさまるのじゃないですか。

関西国際空港の方にすべての空港機能を集中させて
24 時間!世界のハブ空港にしたら
関西国際空港も黒字化するでしょ。

伊丹空港は軍用飛行場として
地元に対策費もどかどかと落ち
民間経済も活発になるはず。

いつも大好きな飛行機を見られるよ。



公園の隅に岩屋遺跡がありました。
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弥生時代の用水路の護岸施設が保存してあります。

空港の下には広い稲田が広がっているのかも知れません。



(敬称略)
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仁徳天皇陵にて [いわなが姫の丑の刻参り]

仁徳天皇陵の正面です。
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南側から北東に見ています。

百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)が
正式な名前かも知れませんが
宮内庁が仁徳天皇陵だと比定しているので
仁徳天皇陵です。

たぶん!この治定は間違っていると
なんの根拠もないけど
思ってしまうのは私だけでしょうか。

でもまぁ!バカでかいお墓です。
長さでは世界一の墓だそうです。
ちなみに高さで世界一はクフ王のピラミッド。
体積世界一は秦の始皇帝陵。

地図で見ると三重の堀に囲まれていますが
外側の堀が見えるだけでなにがなんやら。



仁徳天皇は知名度の高い天皇ですね。
でも!私なんかの無学なものには
不思議な!不可解な一生です。

私の一番の疑問は
配偶者や皇子女の数が少ない。

手元にある天皇家の系譜を見れば
第 16 代仁徳天皇の配偶者は 4 名。
皇子女は 6 人。
記紀(古事記&日本書紀)の記録と同じでしょうか。

在位 87 年!
私の手元の古事記では83 歳で亡くなっています。
算数が分からなくなりますね。はは。

算数の答えはさておいて
そんな権勢を誇った天皇が
后(きさき)やこどもが少ないなんて。



後ろを向けば孫太夫山古墳。
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仁徳天皇陵に比べたらミニミニですが
堀のある立派な古墳です。

陪塚(ばいづか)だそうです。

陪塚は10 数基あったとかいいますが
いくつかは失われているらしい。

南のラインには陪塚が並んでいます。
狐山!竜佐山!孫太夫山古墳が認められます。
南の東の角に収塚古墳というのが地図にありますが
私にはよく分かりません。



古事記の字数では仁徳帝分は
2665 字あるとか。(安本美典著/大和朝廷の起源)

神武天皇が 2636 字だそうですから
大変重要な初代とほぼ同じ量の記事。

それで皇子女を書き忘れることもないはず。



古墳の周囲を歩きます。

東のラインの塚廻古墳と
北の東の源右衛門古墳も陪塚らしい。
雑木が生えているだけのところですがね。

北の東の外側の堀と中側の堀の間に
やはり陪塚・大安寺山古墳。
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そばで見たら
お世辞にもきれいともいえない水がある外の堀と
木々の繁りがあるだけです。

離れて見たくても
周囲に民家がひしめいていて容易ではありません。

北の堀の中にはもう 1 基
陪塚・茶山古墳がありました。
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いわれてみて!そう思うだけ!木々のかたまり。



仁徳天皇は大変好色に書かれています。

しかし!皇后の
石之比売命(いわのひめのみこと)が嫉妬に狂い
ことごとく恋のじゃまをしています。

だから配偶者の数が極端に少ないのかな。

4 人の后のうち
2 人は応神天皇の娘です。
つまり!自分の妹なんですね。

あとひとりは
父・応神天皇が気に入って
日向から呼び寄せた髪長比売(かみながひめ)。

父親の妃をもらったの?!



北の西に
永山!丸保山!菰山古墳。
これらも陪塚だそうですが
今回は見ないで通り過ぎます。

西のラインの中ほどに
外側の堀の中に島のように浮かんでいるのは
陪塚・桶の谷古墳だとか。
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さらに西の南に陪塚・銅亀山古墳がありますが。

陪塚はかろうじて認められますが
周遊歩道 1 周 2.8km ばかり歩いても
仁徳天皇陵の全体の姿は分かりません。



勅撰(ちょくせん)ですよ!記紀は。
勝手に書いた本ではないのです。

それでこの記録とは。

やっぱり!いつも感じるのですが
応神天皇から
天皇家の系統が入れ替わったのじゃないでしょうか。

応神天皇の前 69 年間は
天皇が不在だったようですしね。

それに!応神天皇と仁徳天皇は同じ人かな?!

ひとりの業績をふたつに割って書いたのでは。

応神帝の
配偶者は 10 人。
皇子女は 28 人。
そこに書き尽くしたので
仁徳帝の方には少なくなったのでは。



文化遺産か自然遺産か知りませんが
世界遺産に登録されたいらしいのですが
測量や発掘をして
もう少しつまびらかにしなければならないこと
多いのじゃないですか。



(敬称略)
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突然!先祖の遺産!大金持ちに! [不謹慎ですが、、、]

「出頭せよ」

裁判所から手紙がきました。



徘徊していると
とんでもないところが
個人の名義になっていたりします。

たとえば天王山の頂上だとか
京都の五山の送り火の山だとか。

名所旧跡でも古墳でも寺院の境内でも。

カヤ葺きのカヤを取る山とか
講や行をするための小屋とか
村落の共有財産の入会地(いりあいち)を
登記がなされていない土地は没収するという
たとえば明治維新なんかの常識が変わるとき
おどしがあったのかも。

各地でウワサは聞きます。

「あの山は共有のものだったはず」
「ある人が代表で仮に登記したはず」
「代を重ねているうちにその家のものになった」とか。

「神社の氏子が集まっていた土地を」
「氏子代表が登記してみんなで使っていたのに」
「ある代で勝手に売って金をひとり占めにした」とか。

天王山とか送り火の山のことは知りませんよ。



ちょっと事情は違いますが
いきなり役所から
お金をあげるといわれた人もいますね。

祖父か曾祖父かの名義の土地が
公共用地に召し上げられたらしい。
ほんのわずか!猫の額のような土地らしいのですが。

父親が先祖に代わって
固定資産税を納めていたらしい。
が!親もおじさんたちも鬼籍に入り
事情が知らされず放置されていたので
溜まっていたたくさんの税金も
払わされたそうですが。



ご先祖さまの資産が出てきたら
そりゃ!うれしいですけどね。

でも!滞っていた税金やら
新しく相続税やら所得税やら納めて
扶養家族でなくなったり
健康保険料や住民税がはね上がったりして
得したのやら損したのやらなら
出てこなくてもよかったのに!となるかも。



そんなことをはなしていたすぐ後に
遠くの裁判所から呼び出しが!

あったのですねぇ!私にも。
ご先祖さま名義の土地が。

わ~い!わ~い!
とりあえず!うれしい!



町内会の集会所の底地だとか。
もともと地縁のものたちの土地で
明治時代から町内で使用してきたので
町内会の名義にしたいらしい。

名義人を初代だとしたら私は 5 代目。
被告人は主に 4、5 代目でしょうけど!
代襲相続というのでしたか!その数の多いこと。

しかも!名義人は私の先祖だけではありません。
これまた!大勢の人と共有名義なんです。

仮にその土地が被告人全員のものだとしたら
割れば!ひとり 0.3 坪もありゃしない。

評価額!いくらなんでしょう。
片田舎(失礼!)の土地。
驚くほどの金額でもないはず。

う~ん!
裁判に行く旅費・交通費が高い。
それで行っても!確実に負けそう。

ぬか喜びかぁ?!



法学部は通信教育(!)で
しかも授業料未納でほどなく除籍になったので
いい加減なことをいいますが
「時効」なんじゃないんですか。

堂々と 100 年以上居座っていたのですから。
こんなとき
堂々と登記簿を書き換えできないのですか。

ま!どっちにしても人騒がせな。
もっと!大きな資産が出てきませんかね。



あ!
思い出しました!
大昔!祖母が外国の硬貨を数枚くれました。
裸のまま!手渡しで。

「大変なものじゃ!」

いざというときに使え!といっていたような。

それが今!ありません。
紛失してしまいました。

ああ!あれが出てきたら
裕福な!
ま!多くは望みません!
フツーの生活をとりもどせるのに。

某TV局の番組
「開運!なんでも鑑定団」に
こんなケースがよく登場しますねぇ。

たいてい!二束三文!の結末。
出てこない方が、、、夢が残るかな。
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猪名川沿い 田能遺跡 [猫も歩けば棒立ち]

猪名川をさかのぼります。
彼岸花が咲き始めました。
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大阪府と兵庫県の境界線上。
尼崎市を歩いているつもりですが
豊中市になったり伊丹市に出たり。



「農業公園」への標識があります。
猪名川右岸。
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尼崎市立でしょうか。

「農業公園」と命名されていますが
フツーの公園にしか見えないのですが。
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バラ園!ボタン園!ハナショウブ園!芝生広場!

農業公園だから
稲田やそば畑があって
牛やヤギが遊んでいるのかと思ったのですがね。

公園内に古い溺死霊魂の慰霊碑がありました。
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「元文五年雷鳴拆山洪水襄陸」だったそうですよ。

日本にきて間がないものは読めやしない。
元文 5 年(1740)年に雷鳴が山をさいて
洪水が陸をおそったのでしょうか。

死者が「幾千万人」ですって。



猪名川橋を渡り左岸へ。
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遊歩道かサイクリングロードか知りませんが
草に囲まれて
虫の音が聞こえるさわやかな道がつづいています。

ん?!
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やめてください!
土手や河川敷の草刈りが進んでいます。

昆虫たちはどこへ行けばいいの。

このとき
猪名川はつましく
底をくねくね流れているだけだったのですが
この夜!大雨警報!
1 時間に 100mm を越える降雨!?

猪名川はあふれたのでしょうか。



左岸に「田能遺跡」がありました。

「田能」は「たのう」でしょうか。
「たの」と発音している地元の人もいましたが。

弥生時代の住居跡。
建てものを復元していました。

円形平地式住居。
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方形竪穴住居。
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稲田には古代米を植えているそうな。

高床式倉庫も。
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プレートがたくさん立ててありますが
埋葬場所を示しています。
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木棺墓!土壙(どこう)墓!
壺・甕(かめ)棺墓など 17 基。

住居のすぐそばに埋葬していたのですか。

たぶん!復元場所がなかったので
ここに建てたのでしょう。

というのは
田能遺跡は大変広大だったに違いありません。

発見された昭和 40 年(1965)ごろは
高度成長!イケイケどんどんの時代。

ここに工業用水の配水場建設が急がれて
遺跡なんかどうでもよかった時代。

今!わずかに残されていたのが墓地跡。
仕方なくそこに住居を復元したのじゃないのかな。
間違っていたら!ごめんなさい。



私は墓の上の芝生に座って
ほんの少しときの流れに身をまかせます。

思いを込めて埋葬した人たちも埋葬されて
もう!なんの感慨も風に消えています。

日本の風土でお骨や木棺が残っていたことさえ
ただただ!まれなこと。

ということは
崩して配水場にしても
なんのおとがめもないはず、、、ですか。
日本中!
先祖のお墓の上に住んでいるようなものだから。

ふと!
ゴールズワージー著/渡辺万里訳/の
「林檎の樹」を思い出しました。

「林檎の樹」の主人公は片田舎で
道のそばの小さな小さな芝生のふくらみを
偶然!見つけます。

20 数年前に別れたかの女の墓でした。
かの女は共同墓地にも
希望した林檎の樹の下にも埋葬されていませんでした。

今!なんのくもりもない幸せの中
かの女の眠る芝生に座って
かれはなにを思いますか。
思いましたか。

結末は、、、忘れました。
忘れてもいいことだったような。



(敬称略)
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ホテイアオイに泣く浮き草人生 [草のゆかり]

昨年でしたか
わが家にきたホテイアオイ。
春から秋にかけて増えて!増えて!
1 か月に 1、2 度半分に間引いていました。

冬には水槽に小さなヒーターを入れておいたので
低くても 12℃くらいの水温があったので
残しておいた数株は元気を保ち
あたたかくなった春から
どんどん増えていたのですが。
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7 月になって急に
色褪せてきて縮んで!
まったく増えなくなりました。
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枯れていきます。
水槽の置き場の環境は昨年と同じはずです。
水質が変わったのでしょうか。

京都の伏見の運河から拾ってきた
水草(拙ブログ 2014/06/03)も伸びるのですが
色が非常に悪いままですから。

水は大阪市の水道局製。
集合住宅の屋上の水槽に 1 度貯水してから自然落下。

「水槽の清掃になにか薬品を使用したのでは」
という人がいますが
それなら薬品に敏感な子エビが先に反応するはず。



一斉に自殺する遺伝子があるのでしょうか。

「ホテイアオイは毒草」と信じている
やさしいお顔で夜ごと男の子たちに
妖しげなフェロモンを振りまいている
アラフォー(around 40)のおね~さまがいますが。

毒じゃないですよ!たぶん。
私!試食しましたもん。(拙ブログ2013/09/07

クスノキは周囲に他の草が生えないようにフィトンチッド
なにか抑制物質を出しているという
ウワサを聞いたことがありますが
まさか!ホテイアオイにそんなことは?!

新しく 1 株買ってきました。
これが上の画像のやや左の
まだ!緑色が濃い個体です。



どんどん枯れて夏が終わりました。
新しく買ってきたものも枯れて
もう残骸(!)が 3 株だけ。
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寂しいので
ハイキングのときに田んぼから
少しだけ採取してきたウキクサを入れたら
爆発的に増えました。

ウキクサと書きましたが
正確にいえばアオウキクサかな!
ウキクサより小形で!扁平!ぞうり形です。
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幼少のころには
小さなクローバーの葉みたいな
丸い葉状体のウキクサが多かったような。

奈良県御所市!兵庫県三田市!
それに近くの
大阪市平野区の田んぼからきた寄せ集めですが。
どこにもアオウキクサしかなかったですけどね。
棲息分布に顕著な違いがあるのやら。

画像にある丸い浮き葉は
ホームセンターで安価に売られていたもの。
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名前は知りませんが
サンショウモの仲間かな。
たぶん!外来の水草でしょう。



あ!
伏見からきた水草が花をつけています。
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まったく泥のような色になった水草の伏見組。

その中で 1 茎だけ緑色に変化したのです。
その緑色の茎に咲いています。



昨年はメダカより小さかったモツゴが
北琵琶湖の風物詩の
炭焼きができるくらいの
モロコの大きさになりましたが。

浮き草のような人生に似合いの水槽ですか。

でも!あの 1 輪の小さな花も咲かない日々。はは。
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