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阪神百貨店スナックパーク最終日に [わが街・大阪ブギウギ]

「B 級グルメ」が好きですね!近ごろの庶民は。

あ!怒らないでね。
庶民の範ちゅうに入らないほどの貧民の
私のたわごとですから。

縁日やら
あちこちのイベントに
「富士宮焼きそば」だの
「ひるぜん焼きそば」だの
のぼりを立てた屋台を見かけます。

ホントーに「富士宮」や「蒜山(ひるぜん)」の
そのレシピ通りか怪しいものですが
「B 級グルメ」といえば人が集まるのですか。



「B 級グルメ」ということば
いつごろできたものでしょうか。
なん十年も昔から使われていたのでしょうか。

「B-1 グランプリ」なんて催しが
ニュースになったりしますが
始まって 10 年も経っていないはず。

手元に
「B 級グルメが見た台湾」と
「B 級グルメが見た韓国」という
どちらも文藝春秋編の文春文庫があります。
発行は 1989 年です。
少なくとも!
その時代にはあったことばのようですが。



B 級ですから高級じゃないのでしょう。

しかし!高級が「売り」の百貨店に
「B 級グルメ」が
蝟集(いしゅう)しているコーナーがあります。

阪神百貨店の地下 1 階の「スナックパーク」!

回転焼き!きしめん!丼もの!
抹茶ドリンク!ジュース!オムライス!
お好み焼き!焼き芋!たこ焼き!
そば!ちょぼ焼き!ねぎ焼き!
カレー!ラーメン!
寿司!いか焼き!等々があるようでした。

といっても!
私はほとんど食べたことがありませんが。

値段は 100 ~ 500 円くらい!
安い!
百貨店にしては安価です。

それをイスのないテーブルで立って食べるのです。
百貨店の中で立ち食い!(拙ブログ 2014/12/14

すごいです。



その中でもチョー有名な「いか焼き」!

烏賊(いか)の姿焼きではありません。

お好み焼きの生地のような小麦粉を溶いたものに
烏賊(いか)の切り身を入れて
鉄板の上にのせ
鶏卵をおき
上から鉄板ではさんで
あっという間に焼きあげてしまいます。

それに!お好み焼きに使うような
粘りのあるウスターソースを塗り
ソースを隠すようにふたつ折りにしてできあがり。

このスタイルの「いか焼き」は
他の地方にはない独特の食べものでしょうか。
大阪市内に数十軒あるようです。

生野区に「いか焼き発祥」と名乗っている
「桃谷いかやき屋」という店もありますが
拙ブログ 2013/02/28
阪神百貨店のいか焼きの店は
1 日に 10,000 枚から
15,000 枚もさばいているようです。

すごいのです!大阪の B 級グルメは。



人生の半分以上を大阪に暮らしていて
阪神百貨店の「いか焼き」を知らないという
アラフォー(around 40)のおね~さんを
案内すると!?
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なんですかぁ!
いつも混み合っていますが
この日はいか焼きだけで警備員が 2 名もついて
1 時間以上待ち!だとか。

メニューだけ見て帰りますか。
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決して高くはないでしょ。

ここがイートインです。
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立錐の余地もなし!

上に断り書きのボードが。

「建て替え工事のため」
「スナックパークは 2 月 17 日(火)をもちまして」
「終了いたします」

あああ!
2 月 17 日(火)は今日ざんす!
それで!この!人!ひと!人!
村祭り中に火事がおきたときの群集をしのぎますなぁ!

人をかき分けて
ほうほうの体で出れば
オムライスの行列は百貨店の外までつづいていました。
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ごめんなさい!
もう少し早く連れてきてあげたらよかったですね。
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露菴のバイキングで鬼になる [たべほ!ブフェ!バイキング!]

ここはどこ?!
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ときどき!見失います。
私はだ~れ!?
自分さえ見失うときが多いですけどね。

懐中不如意という慢性病はさらに悪化し
1 度遠出したら
なけなしの交通費をつかっているのですから
あれやこれや!
できるだけ多くの情報を得ようとするのですが
スマホやタブレットのモバイルも紙の地図も持たず
右往左往して空回りして立ち尽くすばかり。

ここは奈良県の広陵町の高田川かも。

大きな看板が見えますが。
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「ROAN」とは読めますが
おフランス人にはむずかしい崩したような漢字が。
「フランス人」じゃなく「おフランス人」ですよ。

「バイキング」の店でした。
漢字は「露菴」と書いて「ろあん」と読むらしい。

わ!高い!
1,000 円までの
低価格バイキングばかり食べているものには。
ランチバイキング 1,630 円。
ま!いいか。
昨夜からロクなものを食べていないし
今朝も腐った!いや!
熟したバナナ 1 本だけだったから。



こんなへんぴな寂しい場所に(失礼!)
人が押し寄せていました。

ごった返す待ち合いにお茶が用意されています。
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ちょっと!好感。

ま!食べますよ。
食べてやろうじゃないの!
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いつものように端からひと口ずつ。

大根のなますと
干し大根の和えものがおいしい。
なんて貧しい(!)生活が見え隠れ!
他言無用に願います。

もう!おなかがいっぱい。
半分も食べていないのに。
1,630 円だぁ!頑張らなきゃ!
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おこわもピザもいっしょに食べておきます。



それにしても!大勢の人ですね。
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奥の個室みたいな部屋から
明るいテラス席みたいなところもあって
100 卓以上ありそう。
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みんな食欲の鬼?!
すごい!

まるで餓鬼ですね。
人類は飢えた時代が長いのでしょう。
飽食の日はごく最近かも。

食欲と性欲だけで生きてきた動物かな。

こんなにたくさんの食欲の鬼が
夜になると性欲の鬼になるのでしょうか。
夜を待たなくてなっても勝手ですが。
すごい!



ふと!
トルストイ(1828 ~ 1910)の性欲(性慾)論を
思い出した変な私です。

トルストイはいろんな考えの末
晩年に「性欲否定論」
「完全童貞論」にたどり着いたのでしょうか。

この性欲論の時代(1885 ~ 1891)の
背景と常識を知りませんし
キリスト教の信者ではないものには
むずかしい論文ですが。

トルストイも人生の大半は
「男は労働」「女は出産」を
不変の法則と信じていたようですが。
人間変わるのですね。
ただ!性欲が落ちただけじゃないか!といえば
文豪に無作法というものでしょうか。

さ!頑張って!サラダとパン。
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具だくさんの味噌汁がおいしい。
どうも!考えることがみみっちいですね。



私の持っている「性欲論」は
昭和 30 年(1955)の米山正夫訳なんですが
やたら「童貞」という単語が出てきます。

こどもを作るとき以外は
「童貞」じゃなくてはいけないとか。

そんな単語の使い方!あるのですか。

男女どちらもの
性の未経験を指すことばだったのかも知れませんが
「喪失」したら
もう 2 度とそう呼べないのじゃないの?!
私の観念ではね。

特に名を秘したいのですが
ある居酒屋のめし炊きおばちゃんがときどき
「私!きむすめ!」
「もう 1 か月も処女!」なんて
気持ち悪いどうでもいい冗談(本音?)をいいますが。

もちろん!
気のおけない人ばかりいるときですがね。

そんな使い方!ふと思い出しました。
日本語はむずかしい。



今は食欲の鬼にならなくては。
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こんなときに白いごはんなんて
敬遠したらいいようなものなのに。はは。

サラダの葉ものの材料は
少ないような気がするのですが
デザートはたくさんあるような。
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お茶にしましょうか。
こんなに茶葉があっても、、、そんなにはね。
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ちっとも減っていない「どくだみ」を。
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あんまりおいしくないですね。
コーヒーにしておけばよかったような。



どうでもいいことですが
昭和 8 年(1933)の東京朝日新聞の
廉価版新潮文庫の広告に性欲論がありました。
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相馬御風訳とありますね。
それには「童貞」をどう訳していますのやら。
あ!教えていただかなくてもいいですよ!
そんなに知りたい訳でもありましぇ~ん。



そうそう!
だれも性交渉をしなくなり
次世代のこどもがいなくなり
人類が滅亡しても
それは人類の善の理想が達せられた結果。
悔い惜しむところはない。

そうですよ。

なんだかねぇ!
食欲がなくなりますよね。



あ!?
バイキングのはなしでしたね。
種類はありました。
ひと口だけですが
全部食べなければ気のすまない私が
あきらめたものも少々あります。

食欲と性欲の鬼が乗り移ったときには
いい店舗ですよ。
ま!性欲は強いて関係ないかも知れませんが。



(敬称略)
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タルトはタルトレット?! [食い意地]

  たまご三つ四つ 手にとりて
  泡になるまで かきまぜて
  セドラの甘露 一滴と
  杏の甘汁(あましる) そそげかし

  タルトレットの 焼き鍋に
  フランのねり粉 しきつめて
  すばやくはめこむ 杏の実
  落とすたまごの 泡の水

  さて焼き鍋を 炉にかけて
  こんがり焼くや きつね色
  上々吉の できぐあい
  タルトレットの 杏入り

戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」の中の
「詩人無銭飲食軒の場」の「製菓法」の詩。

「タルトレット」ですか。

シラノ・ド・ベルジュラック(1619 ~ 1655)は
大きな鼻を持った
器量の悪い実在のフランス人かな。
詩人で!学者で!
やたら決闘好きの豪傑だったらしい。

死後 350 年経って
エドモン・ロスタン(1868 ~ 1918)が劇化して
1897 年に
パリで初演されてから有名になったようですが。

上記の詩はそのロスタン作の戯曲の中の詩です。

だから!
そのタルトレットは
17 世紀の菓子やら
19 世紀の製法やら
無学なものにはさっぱり分かりませんがね。

そもそもタルトレットとはタルトのことですか。
タルトとタルトレットは別のものですか。



「今度帰ったらタルト買(こ)うてきてあげる」

愛媛県出身の
飲み屋のめし炊きおばちゃんがいいます。

え!?

ああ!
松山の道後温泉の「坊ちゃん湯」を
見に行ったことがあります。
見に行っただけで入浴はしていませんが。

そのときに土産もの店の店頭に
売るほど並べてありましたね!
ま!いわなくても売っていたのですがね。
タルトが!

それはロールケーキみたいな菓子でしたね!

たしかにあれもタルト!
タルトというのかも知れませんが
あのタルトではないタルト!

「あれしかない!」

そうですが!
今はそうではないはなしなんですが。

ところで!いつ帰るのですか。

「弟が死んだら葬式に帰るときぐらいかなぁ」

いつのことやら。
年の離れた弟さんより
ね~ちゃんのあなたの方が先に死ぬでしょうが。



忙しい合い間を縫って(うそついてすみません)
近所にタルトの探査に。

家を出て 5 分も歩かないうちに発見。
昭和町駅(大阪市営地下鉄)前に
洋菓子店がありました。

「ALMOND」!

「アーモンド」ですか!?
いや!カタカナで「アルモンド」とあります。
なに語ですか!どうでもいいことですが。

大勢の職人さんがなにか焼いていました。

“撮ってもいいですか”

「だめです」

タルトがありましたが。
上記の詩の
「あんずの実入り」のはありませんがね。

“写真だけ撮らせて!”
“あ!はいはい!分かりました!だめですよね!”
ケチ!なんだから。
どちらがケチやら!すみません。

「季節タルト」というものを買いましたぞな。
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480 円税込み。
高いなぁ!
おいしかったけど。

ん!?
これは安価な方ですって?!
まともな(?)タルトは 1,000 円はするそうな。
1 ピースで!

カネつかいのだらしない酒飲みが多いですが
スイーツ好みにも困ったもんですなぁ。
私が困ることもないですが。

日本の庶民は豊かですねぇ。
消費税を 3 倍にして
国民皆兵にしても大丈夫だぁ!

タルトから国家の心配まで
愛国心あふれて(うそついてすみません)
今日も生きています。


(エドモン・ロスタン作/)
(シラノ・ド・ベルジュラックは)
(辰野隆・鈴木信太郎訳を読みました)

(敬称略)
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西長堀川跡 三菱発祥の地 [わが街・大阪ブギウギ]

「西大橋をご存じ?!」

大阪の土着の刀自(とじ)に聞かれましたが。
大阪の人が流れものの私に尋ねてどうします!

「あなたはよく地下鉄を利用しているから」

あ!地下鉄の駅なんですか!?

なるほど!
大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線の駅でしたか。
心斎橋駅の次は西長堀駅だと
なんとなく思っていましたが
中間に駅があったのですね。

西大橋駅から地上に出てみます。
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長堀川です。
いや!長堀川を埋め立てた緑地帯です。
昔!ここに橋があったのでしょう。
それが西大橋?!

あ!?
この元長堀川を横切っている道は
「なにわ筋」ですね。
大阪に流れ着いたときの最初の職場から
あまり離れていないような。

なにわ筋を少し北上すれば
「砂場」の発祥の地がありましたよ。
ね!
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日本のそば店はここから。
400 年以上の歴史があるようです。



長堀川跡にもどって西に歩きます。

富田屋(とんだや)橋の親柱みたいなものと
間長涯(はざまちょうがい 1756 ~ 1816)の
「天文観測の地」の碑。
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橋のたもとの質屋の息子が天文学者になったのですね。

問屋(といや)橋の親柱かな。
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木材の問屋たちが架けていたそうな。

次は白髪(しらが)橋の交差点。
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新羅(しらぎ)の船の停泊場所だったといいます。
しらぎ → しらが と変じたらしい。

手前は「大阪木材市売市場発祥の地」の碑。
長堀川には木材も集結していたのですね。

先ほどの西大橋からずっと
ハラが立っているのですが
橋から橋!今は交差点から交差点まで
この川の跡の緑地帯は島になっているのです。

島から島へ直接渡って歩けないのです。

左右どちらかの車道を渡ってから元・橋の筋を渡り
次の島へとまた信号を待つ
コ型に歩く仕組み。
島から島へ横断歩道がありません。
散策はさせない設計かな。

なんですか?!
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西長堀駅まできました。
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鰹座(かつおざ)橋交差点です。

鰹節の問屋街
鰹座があったところ。
また土佐殿橋とも呼ばれていたらしい。



長堀川跡のひとつ南に並行している道に
大きな神社がありました。
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表にまわれば江戸時代からの桜の名所。
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土佐稲荷神社です。
かつての土佐藩の蔵屋敷があったところかな。

あれ!
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これはスリーダイヤ!?
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神社に「三菱」がいっぱい。
岩崎彌太郎が貿易・海運業を始めた地。
「三菱」発祥の地ですか。

岩崎彌太郎!後藤象二郎!板垣退助!坂本龍馬ら
土佐のおかねにさとい人たちが
このあたりで暗躍していたのでしょうか。



再度!長堀川跡にもどると
玉造(たまつくり)橋交差点。
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もう!緑地もなく!情緒もなにもないですね。

かつて大坂城の南に玉造口があり
今でも玉造の地名が残っていますが
そこに住んでいた与力・同心が増えて手ぜまになって
こちらに町の一部を移したらしい。

木津川にぶつかりました。
長堀川の終点でしょうか。

伯楽橋が架かっています。
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荷馬車が集まっていたところでしょう。
伯楽は日本語になまれば
「博労(ばくろう)」とか「馬喰」とかですもの。

この橋の嚆矢(こうし)は比較的新しい。

明治 41 年(1908)
市電を通すために架橋されたようです。
たぶん!松島遊廓に行くための電車。



なんだか心が疲れて!帰ります。

長堀川は大阪の真ん中あたり
中央区と西区を東西に流れていた川ですが
四ツ橋から東を東長堀川
西を西長堀川と呼んでいたようです。

今日は西長堀川を歩いただけです。
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鉄幹の闇 遠里小野の里 [わが街・下駄ばきドドンパ]

「殿辻(とのつじ)」交差点。
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不思議な名前ですね。
御殿につづく辻だったらしい。
主に住吉大社関係者の
大きな住居が集まっていた地区。
昔の住吉大社の宮司さんたちは
御殿に住んでいたのですね。
あ!失礼!
今も私と比較すれば
相当なお屋敷にお暮しでしょうけど。

と!徘徊して紛れて!偶然出くわした交差点で
不思議な気で立っていますが
よく考えたら
昔!仕事かなんかで
なん度もきている交差点じゃないですか。



そばに若松神社(大阪市住吉区)があります。
止止呂支比売命(とどろきひめのみこと)神社
というのが本名(?)らしいのですがね!
だれもそういいません。

忘れ去られて!くすんで
「後鳥羽天皇行宮跡」の石碑があります。
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この行宮(あんぐう)を
若松御所と呼んだそうですから
今の通称「若松神社」となったそうですが
だれも気にしていないようです。

碑のそばに
霰(あられ)松原荒神がありました。
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境内の裏の方をしげしげと回ることもないので
知りませんでしたが。

万葉集にある長皇子の歌の
「あられまつばら」ですか。

 霰打 安良禮松原 住吉之
 弟日娘與 見禮常不飽香聞

 あられうつ あられまつばら すみのえの
 おとひおとめと みればあかぬかも

ここは熊野街道に近いのですが
並行して走る紀州街道に
「霰松原」の碑が建っていますが
整合性はどうなんでしょう。(拙ブログ 2011/03/03



熊野街道を南に行きます。

右に左に
「おりおの商店街」の街灯がありますが。
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たまたま休日なのかどうか知りませんが
商店街と呼べないような寂しい道ですね。

しかし!「おりおの」を漢字で書けば
「遠里小野」という由緒正しき里ですぞ。

先ほどのついでに万葉集を探せば

 住吉之 遠里小野之 眞榛以
 須禮流衣乃 盛過去           

 すみのえの とほさとをのの まはりもち
 すれるころもの さかりすぎゆく

なんて歌があります。



街道沿いの安楽寺の前に
これまた忘れられているような道標。
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八尾街道の分岐点だとか。
左の面に
「左 阿倍野街道 住吉 天王寺」
「右 八尾街道 堺 大鳥 岸和田」
正面に
「右 八尾街道 安孫子 平野郷 八尾」
と!案外はっきり読めますね。

その八尾街道は!
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路地みたいに!ほんの短く残っていますが。

碑の前の極楽寺には
楠木正成が植えたという楠(くすのき)が
冬の風に吹かれていました。
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正成が寄進したという灯篭もあります。
「遠里小野」は太平記の舞台でもあるのですね。

ね!歴史があふれて!
泡を吹いてあえいでいるでしょ。



近くに山門と墓地と本殿だけがぽつんと残る
バチあたりにはイヤにシンプルに見える
安養寺という寺院がありました。
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10 歳の与謝野寛(鉄幹 1873 ~ 1935)が
養子縁組でやってきた寺といわれています。
体のいい口減らしかも!
小僧に出されたのでしょうか。

行く先々でカネとオンナにだらしなく
問題を起こしていたそれからの鉄幹の性癖は
この寺で萌芽したのでしょうか。

その宿命に
なにかフツーの人には理解できない
心の闇をかかえていたのかも。

鉄幹の歌は荒々しいと思いませんか。

寂寥感いっぱいだった心が
その反対の歌を仕立てたと思えませんか。
すみません!そう思うのは私だけですよ!たぶん。

ごめんなさい。



(敬称略)
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