前期難波宮 下町説の中津 [いわなが姫の丑の刻参り]
阪急電車の始発の梅田駅は
神戸線!宝塚線!京都線の 3 線の
それぞれ 3 本計 9 本のホームがある
堂々とした駅です。
梅田の次の駅は中津です。
そこにはホームがふたつだけ。
それも梅田と比較すれば
女子体操競技の平均台のようにか細く狭いホーム。
京都線にはホームすらありません。
梅田から 1km も離れていないのに
忘れ去られたような印象。
天下の「阪急」ではなく
廃線間近のさびれた町の路面電車の駅のようです。
そこの電車や国道のガード下。
不気味です。
失礼ながら廃墟のようです。
たぶん!昔は多くの商店なんかが
ひしめいていたような匂いがあるのですが。
昔からあったチャップリンの絵はまだありますが。
幅員のない通路のひなびた中津商店街。
この日は休日だったのか
いつもこうなのか
営業している店舗がほとんどありませんが。
クーデターか個人的なうらみか
聞けば聞くほどまともな正義とは思われない
乙巳の変(いっしのへん)後に
首謀者の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は
孝徳天皇(596 ~ 654)を即位させ
奈良から逃げて
難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)に遷都し
後世で教えられるところの
「大化の改新」となりました。
その難波宮の場所はどこか?!
長い間分からなかったそうです。
難波長柄豊崎宮はいわゆる前期難波宮!
歴史の節目と決めつけて教科書にのっているのに
あまりにも短いのです!京(みやこ)の寿命が。
それで説がたくさん。
そのひとつがこのあたりといわれていたとか。
下町説というらしい。
富島神社。
大化の改新のころに比べたら新しそう。
この辺にたしかフランスで夭折した
狂気の画家・佐伯祐三(1898 ~ 1928)の
生誕地で墓所がある光徳寺があるはず。
大伽藍(だいがらん)をようする大寺院のはず。
炎天下!あっちに行ったり!こっちにもどったり。
あ!?
これが光徳寺!?
ま!いいですけどね。
法隆寺のような寺院建造物と
境内があるように思って探していたのですが。
勝手にイメージを作ってはいけませぬ。
ときは確実に流れています。
施錠されているようですので通り過ぎます。
豊崎神社。
主祭神は孝徳天皇だそうです。
まさに難波長柄豊崎宮!
前期難波宮じゃないですか。
やっぱり宮の廃墟の上に建てたという
いい伝えがあるそうな。
しかし!
近代の発掘(1954 ~)で
大阪城外堀南の法円坂付近が
前期難波宮とほぼ決定されてしまいました。
これはなんだったのでしょうね。
まったく関係ないというのも可哀そうですが。
暑い!
日射病か熱中症になりそう。
少し土手になっているJR東海道本線の
細い影の中に身を縮めて南下すれば
行基ゆかりのお堂がありました。
その裏に墓所が!
奈良時代から火葬所と墓地だったらしい。
庶民の墓地なんか近世のものでしょ。
こんな古い時代のものは珍しいような。
市設南浜霊園と書いてあります。
そう!「墓地」ですね。
なんかホントの「墓地」を見ているような妙な感慨。
というのは
最近の大阪市内の墓地は
縁のなくなった!
早いはなし
管理料を出さなくなった墓石は片づけられて
整地されていて
こんな風景は少ないのじゃないでしょうか。
(敬称略)
(追記)
難波長柄豊崎宮の「崎(さき)」は
文献によっては別字・異体字が多いようです。
神戸線!宝塚線!京都線の 3 線の
それぞれ 3 本計 9 本のホームがある
堂々とした駅です。
梅田の次の駅は中津です。
そこにはホームがふたつだけ。
それも梅田と比較すれば
女子体操競技の平均台のようにか細く狭いホーム。
京都線にはホームすらありません。
梅田から 1km も離れていないのに
忘れ去られたような印象。
天下の「阪急」ではなく
廃線間近のさびれた町の路面電車の駅のようです。
そこの電車や国道のガード下。
不気味です。
失礼ながら廃墟のようです。
たぶん!昔は多くの商店なんかが
ひしめいていたような匂いがあるのですが。
昔からあったチャップリンの絵はまだありますが。
幅員のない通路のひなびた中津商店街。
この日は休日だったのか
いつもこうなのか
営業している店舗がほとんどありませんが。
クーデターか個人的なうらみか
聞けば聞くほどまともな正義とは思われない
乙巳の変(いっしのへん)後に
首謀者の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は
孝徳天皇(596 ~ 654)を即位させ
奈良から逃げて
難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)に遷都し
後世で教えられるところの
「大化の改新」となりました。
その難波宮の場所はどこか?!
長い間分からなかったそうです。
難波長柄豊崎宮はいわゆる前期難波宮!
歴史の節目と決めつけて教科書にのっているのに
あまりにも短いのです!京(みやこ)の寿命が。
それで説がたくさん。
そのひとつがこのあたりといわれていたとか。
下町説というらしい。
富島神社。
大化の改新のころに比べたら新しそう。
この辺にたしかフランスで夭折した
狂気の画家・佐伯祐三(1898 ~ 1928)の
生誕地で墓所がある光徳寺があるはず。
大伽藍(だいがらん)をようする大寺院のはず。
炎天下!あっちに行ったり!こっちにもどったり。
あ!?
これが光徳寺!?
ま!いいですけどね。
法隆寺のような寺院建造物と
境内があるように思って探していたのですが。
勝手にイメージを作ってはいけませぬ。
ときは確実に流れています。
施錠されているようですので通り過ぎます。
豊崎神社。
主祭神は孝徳天皇だそうです。
まさに難波長柄豊崎宮!
前期難波宮じゃないですか。
やっぱり宮の廃墟の上に建てたという
いい伝えがあるそうな。
しかし!
近代の発掘(1954 ~)で
大阪城外堀南の法円坂付近が
前期難波宮とほぼ決定されてしまいました。
これはなんだったのでしょうね。
まったく関係ないというのも可哀そうですが。
暑い!
日射病か熱中症になりそう。
少し土手になっているJR東海道本線の
細い影の中に身を縮めて南下すれば
行基ゆかりのお堂がありました。
その裏に墓所が!
奈良時代から火葬所と墓地だったらしい。
庶民の墓地なんか近世のものでしょ。
こんな古い時代のものは珍しいような。
市設南浜霊園と書いてあります。
そう!「墓地」ですね。
なんかホントの「墓地」を見ているような妙な感慨。
というのは
最近の大阪市内の墓地は
縁のなくなった!
早いはなし
管理料を出さなくなった墓石は片づけられて
整地されていて
こんな風景は少ないのじゃないでしょうか。
(敬称略)
(追記)
難波長柄豊崎宮の「崎(さき)」は
文献によっては別字・異体字が多いようです。